「神の国を受け継ぐからだ」 コリントの信徒への手紙一15章42~53節
パウロは種蒔きと収穫という日常の業を用いて、「種が蒔かれて死んで、そのからだが朽ち果てた後に、それぞれ穀物の別のからだをもって生かされているではないか。」 そのことを、「自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。 神は、御心のままに、一つ一つの種に、それぞれの命に体をお与えになります。」と、自然の命の体の「死」と霊の命の体の「生」と捉えているのです。 穀物という「別のからだ」を新たに創造して与えるということを、種粒という「初めの自然の命の体の創造」に対して、終わりの日の「最後の霊の命の体の創造」と言うのです。 「自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。」と、「神の初めの創造」と「神の最後の新しい創造」を語るのです。 しかし、それには、順序がある。 「最初に、自然の命の体があり、次いで霊の命の体があるのです。」と言うのです。 この世界には、それぞれの命にふさわしいからだが神によって与えられています。 「生まれながらの自然の体」です。 しかし、「霊の命の体」とは、生まれながらの人間に自然と備わっているものではない。 特別な賜物である聖霊が神によって注がれて、それを私たちが受け取って内に宿すもの、神の国に属するものです。 天地創造の際には、神の息が吹き入れられて備えられて宿していたものを、いつしか失い手放してしまったものを取り戻した。 その「霊の命の体」を最初に体験した人間がキリストでした。 イエスがバプテスマを受けるシーンを考えてみてください。 大勢の群衆に紛れてバプテスマを受け、祈っておられたイエスに、「目に見える姿で聖霊が鳩のように降った。」 その聖霊を受け取ったイエスに、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者という声が、天から聞こえた。」と言うのです。 死を味わって復活されたイエスは、間違いなく「からだ」をもったお方でした。 そのままのお姿で天に挙げられ、同じ姿でまたおいでになると神は約束されたのです。 イエスの生涯も、復活も、昇天も、再臨もすべて人間としての「からだ」をもったイエスに起こされる、神の御心の中にある「聖霊」の業です。 私たちは、この復活されたイエスに出会い、聖霊の業によってこのイエスに結ばれて生きるようになるのです。 パウロはこのイエスを、「神の賜物である聖霊を降されて、人間の初穂として最後に創造された最後の人アダム」と言い、「霊なるキリストとなって新しい命を与える霊となられた」と言うのです。 この命を与える霊こそ、自分のうちに生きている「霊なるキリスト」、これに結び付けられて生かされているというのがパウロの信仰なのです。 「朽ちないものとなる、輝かしいものとなる、力強いものとなる」とは、「死」に縛られている命を解放して新たな「からだ」を与え直すという聖霊の業なのです。 それは、「神の国を受け継ぐため」です。 「すべての者の身に起こる」ことです。 「今とは異なる状態に変えられます。」 それも、「たちまち、一瞬のうちに」です。 「この朽ちるべきものが朽ちないものを着る、この死ぬべきものが死なないものを着るだけで、今のからだをもってでも、この世の現実を生きていくことができるようになる。 その保証として、聖霊が与えられ神の「最後の創造の業」は始まっているのです。 私たちが授けられている命を表現する「からだ」は、聖霊という神の約束の賜物が注がれて、苦しみを背負ってでも、悲しみを引き受けてでも生きることができるようになる。 「最後の神の創造の業」のゆえに、希望を持つことができるようになるのです。 むしろ、私たちの味わう苦しみや悲しみ、不安や思い煩いこそ、私たちの中に聖霊が宿っている証しなのではないでしょうか。