「主の鍛錬が結ぶ実」 ヘブライ人への手紙12章1~13節
時代背景には外からの脅威がありました。 ローマ皇帝による迫害、殉教の恐れです。 内からの脅威も多大なものがありました。 言われなき中傷や誹謗により耐えかねて信仰を捨てていく「背教」の恐れです。 この手紙の著者は、「イエス・キリストを見つめながら、忍耐強く走り抜こうではありませんか。」と人々を励ますのです。 「わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。 そうでないと押し流されてしまいます。」と、「漂流」の危険性と恐れを語ります。 気がつかない間に少しずつ潮に押し流されていく、ずるずると引きずり込まれてしまう「漂流」には、しっかりとした「錨」を流れの底に降ろさねばならないと勧めるのです。
手紙の著者は、古い時代には神が預言者たちによって語られた。 しかし、新しい時代には神が御子イエスによって語られたと言います。 「神が語る」ということは、何も分かっていない私たちのために、神ご自身が強い意志をもって隠されていたものを明らかにしてくださったということです。 主導権は神にあります。 事を準備して起こすのは神の意志、私たちに対する神のご愛と憐みです。 それに私たちが応えて初めて事が始まるのです。 古い時代には、神の民であるなら当然そうなるであろうと記された律法によって、私たちの罪深さや妥協することのできない神の裁きを知らされたのです。 新しい時代には、イエス・キリストの十字架の神の裁きによって、神の恵みが注がれ、私たちの罪が赦されたことに気づかされたのです。 イエスご自身が、イエスの目撃者たちの証言が、神ご自身自らが、霊的な賜物によってずっと説明し続けておられるのです。 だから、手紙の著者は、「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」と勧めるのです。 「ご自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍ばれたイエスのお姿を忘れないでほしい。 そのお姿は、すべての重荷や絡みつく罪から私たちを解放するためであった。 もともとあった神との交わり、約束されていた祝福と恵みを取り戻すためであった。 そのことを強く心に留めておかなければならない。 それとともに、父なる神のみ心を果たす為だけに自らを置かれたことにより、よみがえらされ、天に挙げられ、父なる神の右にお座りになったイエスのお姿をも心に留めておかなければならない。」と言うのです。 しかし、「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまでに抵抗したことはありません。」と言います。 イエスが人間として耐え忍んでいた戦いは、私たちが戦うようなものではなく、神の厳粛な裁きを受けるということ、神のもとから引き離そうとするこの世のものすごい力との血を流すまでの壮絶な戦いに耐え忍んでおられたということです。 そのお方が、繰り返し私たちの方を振り返り、とりなしてくださっているのです。 そこに慰めと励ましがあり、「もはやあなたがたは血を流すほどの苦しみは不要になった。 だから、そのお方を見つめて立ち上がりなさい」という慰めの響きに感じるのです。 最後に、「主の鍛錬を軽んじてはならない。」 それは、「わたしたちの益となるため、御自分の神聖にあずからせるため、義という平和に満ちた実を結ばせるため」と言います。 この「鍛錬」こそ、私たちを創り命を与えてくださった神を、信頼することができなくなるような所においてでも、気力を失い疲れ果ててしまうような所においてでも、開拓者として歩み通して神のみ心を果たし終え、まったく新しい命によみがえらされて、神のもとに迎えられたイエスを仰ぎながら歩んでいく、その歩みそのものを言うのではないでしょうか。 「信仰」はそのための走り抜く力です。 走り抜く希望です。