「キリストに結ばれる喜び」 ローマの信徒への手紙6章1~11節
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。 人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(ヨハネ15:5)と語られたイエスご自身と私たちとのつながり方を、パウロは「バプテスマ」を通して語ります。 パウロは、「バプテスマ」を「接ぎ木」に譬えています。 野生のオリーブである私たちが切り取られて、キリストという根株に「接ぎ木」される。 キリストという根から豊かに養分を受けるようになる。 不信仰という罪の根が切り倒され、新しいキリストという根に支えられ、新しい命を注がれて生きるようになる。 そこには、切り倒される「神の厳しさ」がある。 その一方で、再び新しい芽生えと新しい命が注がれる「神の慈しみ」があると言うのです。 「接ぎ木」とは、台木の上に種の異なる挿し木を継ぎ合わせて成長を促すものです。 接ぎ木された木は、しっかりと台木に結び合わされて命の養いを受け取っていく。 旧約聖書にも、メシア預言にそのことが表されています。 「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊が留まる。」(イザヤ11:1-2)とあります。 エッサイとは、ダビデの父親の名前です。 ダビデこそ、イスラエルの統一王国を打ち立て、神に愛され、イスラエルの人々に崇められた人物です。 その後の子どもたちから、この栄華を究めたイスラエルは南北ふたつの王国に分裂させられる。 ついには、どちらの国も外国によって侵略され滅んでしまうのです。 このダビデの血筋を引く家系から、救い主メシアが芽生えるとイザヤは預言したのです。 神の御心を離れてしまったイスラエルは切り倒され、その古い切り株を土台に新しい神の国の命がメシアとして芽生えていくと言うのです。 神の裁きという「神の厳しさ」を通して、「神の慈しみ」に生きるようになる。 今までとは不連続に、それまで全く知らなかった、気が付かなかった、隠されていて見ることができなかった世界に新しく踏み出していくことができるようになると言うのです。 パウロもまた、「バプテスマ」は新しくキリストという根や幹に「接ぎ木」されることである。 イエス・キリストに出会い、その救いの恵みに与り、神の子として新しく生かされることであると言います。
パウロは、「キリストに結ばれた者」とは、キリストの死に与かった者、キリストと共に葬られた者、古い自分に死んだ者であると言います。 キリストが自分のためにご自身の命をささげてくださったと信じて、自分の身を委ねてキリストに結びつけられるなら、古い自分がキリストと共に十字架につけられ、罪に支配されていた「からだ」が滅ぼされ、罪の奴隷から解放される。 そして、キリストが復活させられたように、私たちもまた新しい命に生きることができるようになると言うのです。 キリストの死とキリストの復活は一体です。 私たちの死と復活もまた一体です。 同じキリストに結ばれた結果です。 キリストと共に死ぬことがなければ、キリストと共に生きることは始まりません。 「キリストと共に死ぬ」とは、神の戒めを守ることのできなかったアダムとエバから延々と受け継がれてきた罪の体、死ぬべき体が滅ぼされて、再び奴隷として罪に仕えることがないようにするためです。 罪が支払う報酬は死です。 神が賜るものはキリストによるまったく新しい命です。 パウロはそのことを信じる根拠を、すべてのものを創造し、再び創り直す力のある神が独り子イエスを復活させたという事実に求めます。 その復活させられたイエスに聖霊の働きによって出会い、今までの古い自分が赦された実体験。 この神の御心に委ねきったイエス・キリストと共に生きているという喜びと感謝の実感に求めるのです。 「罪に対して死に、神に対して生きる」のです。