秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

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「イエスとの出会いから」 ヨハネによる福音書9章1~12節 

2021-12-19

 クリスマスは、今まで抱き続けてきた人々の救いの希望の実現という到達点でもあり、神の救いの実現が始まる出発点でもあります。 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ11:1)と言います。 必ず訪れる確かな神の約束が「来ること」と、それを信頼して「待つこと」の間に、神のみ心が私たちに信仰と希望を注ぎます。 信仰が祈りと希望を生み出し、その実現が未だ見えていない時に成し遂げられる確信と喜びが与えられると言うのです。 クリスマスの出来事は、神がご自身の独り子を私たちに出合わせ、その救いの御計画を実現させる始まりでした。 自分の身に突然奇跡が起こされ、つくり変えられたひとりの人物がいます。 時は、秋の仮庵の祭りの最も盛大に祝われる最後の日です。 エルサレム神殿に集まっている多くのユダヤ人たちに、「わたしは世の光である。」と宣言された直後の、神殿の境内を出て行かれた時のことです。 「生まれつき目の見えない人」について、弟子たちはその原因と理由をイエスに尋ねるのです。 この時のイエスの有名なみ言葉です。 「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。 神の業がこの人に現れるためである。」 イエスは原因に目を向けるのではなく、目的に目を向けさせるのです。 弟子たちが勝手に災いだと思っているところに、神の業が現れると言うのです。 多くの人々に向けて語られた「わたしは世の光である」という宣言を、この「生まれつき目の見えない人」に向けて語り、唾で土をこねる、その泥をその人の目に塗る、シロアムの池に行ってその目を洗いなさいと言われたのです。 言われたことはすべて、安息日にしてはならないことばかりです。 彼の中に信仰があったとは思えないが、目が治りたい一心でイエスの言われた通りにすると、目が見えるようになったと言うのです。 問題はこのイエスとの出会いの後です。 彼を知っている人々は信じることができないので、その事実を否定したり、納得できる説明を求めたりするのです。 ファリサイ派の人々は、安息日に違反したイエスの行いの証拠を得るために尋問を繰り返すのです。 彼は自分の目が癒されたこと、イエスという名前のお方がしてくださったこと、自分が行ったことの事実だけを語ることしかできません。 尋問を受けるにつれて、今まで自分の目が癒されたことにしか目がいかなかった彼が、自分の目を見えるようにしてくださったお方に目を向け始めます。 「神のもとから来られたのでなければ何もできなかったはずである」と、反論するまでに変えられていくのです。 生まれながら光を見ることすらできなかった、将来を見ることもなく諦めていた人がイエスに出会った。 その呼びかけを聞いた。 何も分からないまま、言われた通りに従ってみた。 自分の身に起こされた事実、恵みの証しを与えられた。 目が見えるようになっただけでなく、戻ってきて証言をし事実を捻じ曲げようとする人々に反論するまでにもなった。 目を見えるようにしてくださったお方に目が向くまでになったのです。 そのように変えられた人にイエスは再び出会ってくださるのです。 「あなたは人の子を信じるか」と問い、「その方はどんな人ですか。 その方を信じたいのですが。」と問い返すまでになった彼に、「あなたは、もうその人を見ている。」と言われたのです。 クリスマスの出来事は、神が赤ちゃんの姿をとって私たちの前に現れ出てくださった救いの出来事の始まりです。 この出来事は、今まで閉ざされていた道の終着点でした。 今まで存在していなかった未来の新しい道の始まりです。 イエスとの出会いを体験した人が、新しい目が開かれ、分からないままイエスと共に歩み出すようになる。 すると、イエスの姿が見えるようになるのです。 これが神の業、クリスマスの出来事です。



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