「抱きしめ和解させる神」 ルカによる福音書15章25~32節
「主があなたと共におられる」と告げられ、イエスはこの地上に赤ちゃんとして誕生されました。 そのイエスが地上の生涯を送り、死んで、葬られ、復活させられて、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と弟子たちに言われたのです。 イエスがともにおられるということは父なる神とともにいることになると、神は救いの恵みを語っておられるのです。 創世記には、「すべてのものが整ったその最後に、神は人を神にかたどって創造された。 土の塵で形づくり、その鼻に命の息を吹き入れた。 神がそれを見て『よし』とし祝福された。 人が独りでいるのは良くないとして、助ける者を造られた。」と記されています。 神と人をつなぐものは、神の息です。 人はすべてのものが備えられて、それに支えられて、力を借りて生きるようにと最後に造られた存在なのです。 イエスが「赤ちゃん」としてこの世に遣わされたのも意味のあることです。 神との交わりを保たなければ、神に備えられたものや助け手がなければ生きていくことができないのです。 そのことを、「放蕩息子のたとえ」で示しています。 父親からの自由を求めて、自分の思い通りの人生を送ろうと父の家を飛び出た弟息子と、父親の戒めを忠実に守り、父に仕え従ってきた兄息子と、そのふたりを温かく見守る父親が主な登場人物です。 思い描いた自分の理想から困窮の極みまで、奈落の底に落ちて行った弟息子に転換点が訪れたと言います。 「我に返った」と表現されています。 父親の愛情に育まれていた幸いと恵みに初めて気づかされたのでしょう。 その幸いを自ら捨ててしまった愚かさ、その過ちに気づかされたのでしょう。 弟息子は3つの言葉を抱いて、父の家に帰ろうと決心します。 「わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。」という告白の言葉と、「もう息子と呼ばれる資格はありません。」という謝罪の言葉と、「雇い人の一人にしてください。」という懇願の言葉です。 これが弟息子のたどり着いた「悔い改め」、精いっぱいの「悔い改め」です。 忘れてしまっていた「からだ」に染みついた父の愛情の記憶が動かせたのでしょう。 何と言われるか心配しながら戻ってきた弟息子に対する父親の姿は、「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き接吻した。」と言います。 父親は必ず帰ってくると待ち続けていたのでしょう。 自ら見つけ出して、走り寄って来た。 叱るでもなく、悲しむでもなく、驚くでもなく、呆れたのでもなく、「憐れに思った」と言うのです。 「雇い人の一人にしてください」という用意していた弟息子の言葉を遮るかのように、「息子として」迎え入れ、「抱きしめて接吻し」喜びを表したのです。 弟息子の精いっぱいの「悔い改め」は、父親の大きな愛によって受け止められ成し遂げられたのです。 「悔い改め」は、自分だけの力や決意で成し遂げられるものではありません。 父なる神への信頼と祈りの希望があって、それに父なる神が応えて成し遂げられるのです。 父親はもうひとつの姿を、兄息子に取ります。 勝手気ままに生きた弟息子に責任を取らせることなく、無条件に受け入れている父親に対する兄息子の激しい怒りがあります。 「あなたの息子」と弟を称して言う兄息子に、父親は、「お前のあの弟」と言い和解を求めるのです。 「お前も弟もいつもわたしにつながって一緒にいる」と、父親のもとにいる存在を喜んでいるのです。 私たちは父なる神のご愛のもとになければ、神の赦しがなければ、あるいは人と人との交わりがなければ、和解がなければ生きていくことのできない存在です。 神のご愛が豊かに注がれなければ、赦しも和解も不可能でしょう。 クリスマスは、その救いの出来事の始まりです。 突然のマリアへの呼びかけは、私たちにも及ぶ出来事なのです。