「その時を知らないのだから」 マタイによる福音書25章1~13節
イエスは、「心を騒がせるな。 神を信じなさい。 わたしをも信じなさい。 わたしの父の家には住む所がたくさんある。 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。 こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ14:1-3)と、今は姿が見えなくなるが、必ず戻ってきて弟子たちを迎えると約束されました。 「その日、その時は誰も知らない。 ただ父だけがご存じである。 だから目を覚ましていなさい。」と、イエスは「終わりの日」、救いが完成される日のことを「十人のおとめ」のたとえをもって語るのです。
ユダヤの婚礼は、花婿が花嫁を迎えに行き、花嫁を伴って婚宴が開かれるところに連れて行きます。 花嫁の家では、介添え人の乙女たちが手にともし火を持って待機します。 花婿が訪れると、ともし火をかざして婚宴の席にまで花嫁を導いて行きます。 イエスはご自身を「花婿」によく譬えられました。 神の民の群れはその「花嫁」に譬えられます。 この「花婿」の到着こそ、イエスが再び来られる「終わりの日」、「救いの時」を譬えているのでしょう。 婚宴の席に参加する乙女たちこそ、神の民の群れを示すのでしょう。 その乙女たちは、「花婿」を待ちわびて「ともし火」を用意していた。 ところが、「花婿が来るのが遅れたので、眠気がさして眠り込んでしまった。」と言います。 マタイの福音書が記されたのは、エルサレム神殿が崩壊した後のことでした。 イスラエルの人々にとって、この世の終わりと思わされる出来事が起こってしまった。 イエスは約束通り、自分たちを迎え入れるために再びやってくると思っていた。 ところが、約束されたイエスは現れることはなかった。 期待を裏切られて、疑いや不安の中に漂う、失望に陥っている人々の姿こそ、この「眠気がさして眠り込んでしまった」乙女たちの姿ではなかったでしょうか。 イエスはこの乙女たちに、「賢い乙女」と「愚かな乙女」がいたと言うのです。 その違いは、「壺」に「油」を入れて用意して待っていたかどうかだけです。 「賢い乙女」は用意していたので、突然の出来事に間に合わせることができた。 「愚かな乙女」は、「ともし火が消えそうです。 油を分けてください。」と願い出ますが、「分けてあげるほどはありません。」と薄情にも断られます。 なぜでしょうか。 イエスはご自身が十字架の死に向き合って、ご自身の「終わりの日」を見つめて、それが自分のために父なる神から与えられたものであると確信して受け取っていったように、「人から分け与えられて、融通してもらうようなものではない。 神の呼びかけに耳を澄ませて聴いて、受け取って、従ってみようとするところに、神ご自身より分け与えられるものである。」と、「油」の本質を譬えをもって語っておられるのです。 どちらの乙女に該当するのかと示して、「終わりの日」を迎えるようにとイエスは迫っておられるのでしょうか。 イエスは誰よりも、人間の死が肉体の死を超えて、神から捨てられるという「永遠の滅び」、本当の絶望と悲しみに生きてくださったお方です。 そのお方が、「その日、その時」を憶えて、希望のうちに待ちなさい。 「目を覚ましていなさい。 油を用意していなさい。」と招いてくださっているのです。 どちらの乙女も、イエスを待ち望む心は持っていたはずです。 突然の到着に至っても、何とかしようとしたのです。 「その日、その時」は突然訪れる。 私たちの予定にはない、遅れて、突然訪れるのです。 それも、驚くような姿をとって私たちの前に現れるのです。 「その日、その時」を待つ希望をもちましょう。 もし出会うことができたのなら、その恵みを味わいましょう。 私たちの日常生活の中に現れて、招いてくださっているイエスのお姿を見つけ出しましょう。