「多様性の中で」 ローマの信徒への手紙14章1~10節
ローマの生まれたての「家の教会」には、多数派の異邦人キリスト者と少数派のユダヤ人キリスト者がいます。 習慣の違いからくる、あるいはモーセの律法に対する受け止め方の違いからくる些細なことで衝突が起こっていたのです。 律法の中に定められている「汚らわしいとされていた豚肉」、「血抜きしていない絞め殺した動物の肉」、これを自分たちは食してよいものなのか。 また、「異教の神殿にささげられた犠牲の肉」が市場を通して出回り、それを自分たちは食してよいものなのか。 特に少数派であったユダヤ人キリスト者たちにとって、これは重大なことであったのです。 ところが、異邦人キリスト者にとっては、そのようなことには自由であり、そこに拘るユダヤ人キリスト者たちを侮り、軽蔑したのです。 私たちの国でも、仏教や神道の慣習により、一般常識により様々なことで悩まされることがあるでしょう。 パウロは言います。 「信仰の弱い人を受け入れなさい。 その考えを批判してはなりません。 食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また食べない人は食べる人を裁いてはなりません。」 その理由は、「神はこのような人をも受け入れられたからです。」と言います。 イエスは、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8:31-32)と、律法からもその他のものからも自由とされる喜びを語っています。 パウロもまた、「わたしには、すべてのことが許されている。 しかし、すべてのことが益になるわけではない。 わたしは何事にも支配されはしない。」(コリントⅠ6:12)と言っているように、パウロは自分自身を、律法の制約から解放されているという意味で、「信仰の強い人」として語っています。 今、私たちに与えられている自由は、十字架というキリストの犠牲と父なる神の痛みとご愛を通して与えられたものです。 従って、無制限の自由ではなく、この自由が生み出す行いには神が注がれるご愛と痛みによる制限が加えられるものです。 「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足、自分の正しさを求めるべきではない。 食べる人は、食べない人を軽蔑してはならない。 食べない人は、食べる人を裁いてはならない。 お互いがお互いをつまずかせてはならない。 神のみ心に従って、各自が各自の心の確信に基づいて決めることです。」とパウロは忠告するのです。 「特定の人を重んじる人」と「すべての日を同じように考える人」の違いの場合も同じです。 どちらが正しいことなのかということではなくて、どちらの態度も認めて受け入れるようにと言います。 その理由は、私たちキリスト者は、「自分のために生きる人はなく、生きるとすれば主のために生きる。 自分のために死ぬ人はなく、死ぬとすれば主のために死ぬのです。」 なぜなら、私たちキリスト者は「神に感謝しているからです。 食べる人は主のために食べるのです。 食べない人は主のために食べないのです。 特定の日を重んじる人も、主のために重んじるのです。 生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。 キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも、生きている人にも主となられるためである。」とパウロは言います。 私たちは主の僕、召し使いです。 そうであるのにあなたがたは、「なぜ、キリストの僕である兄弟を自分の召し使いのように裁くのですか。 キリストの僕である兄弟を侮るのですか。 あなたたちは皆、キリストの僕として神の裁きの座の前に立つのです。 神の憐れみと赦しの座の前に、例外なく立ちキリストによって弁護と執り成しをいただくのです。 召し使いが立つのも、倒れるのも、主人であるイエス・キリストによる。」と、パウロは自分の実体験から語るのです。