「希望と苦難」 ローマの信徒への手紙5章1~11節
パウロは、「わたしたちは信仰によって義とされた。 わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得た。 今の恵みに信仰によって導き入れられた。」と言います。 「神の義」という難しい言葉は、「神のもとから私たちのところに流れてくる恵みの水路」と例えられると紹介いたしました。 そのような恵みの水路はすでに用意されている。 それを感謝して喜んで受け取るだけである。 これが「神のものとなる希望、神の栄光にあずかる希望を誇りにします」という言葉となってパウロの口からほとばしり出ているのです。 苦難や試練という出来事もまた、希望を生むとパウロは言います。 なぜなら、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからだ。 神のもとから注がれてくる恵みの水路を通ってくるものは、神の愛だ。 それを神ご自身が与えてくださる聖霊によって注いでくださっているからだ。」と言うのです。 「信仰によって、イエス・キリストによって、聖霊によって」、これらすべて神のもとから出てくるものによって、神のご愛が注がれている。 そのご愛を、苦難の中で、試練の中で、不思議な出来事の中で、わたしたちは味わうことになっている。」から、この希望はわたしたちを欺くことはない。 神のみ心に適う希望は失望に終わることがない、必ず実現される。 だから、「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 そればかりでなく、苦難をも誇りにします。」と言うのです。 「誇る」という言葉は「喜ぶ」という言葉ですから、神さまが私たちにご自身の霊やご愛を分け与えてくださっているので、「希望を喜びます。 苦難をも喜びます。」と言うのです。 神が分け与えてくださる神のご愛によって、神がわたしたちの内に留まってくださるのです。 それが、神の内にわたしたちが留まることになるのです。 同じように、神が遣わしてくださったイエス・キリストを、神の子であると公に言い表し受け入れる人はだれでも、イエスを通して神を内に宿すことになる。 それが神のもとにその人が留まることになるのです。 神の力の源は神のご愛です。
続けてパウロはふたつのことを語ります。 ひとつは、「キリストによって神の怒りから救われた」という言葉です。 イエス・キリストの十字架の死によって、神の裁きから救い出される。 神の憐れみにより、神が用意してくださった十字架の出来事により、私たちが犯してきた過ちが赦されるということです。 もうひとつは、「キリストの死によって、神と和解させていただいた。」という言葉です。 イエス・キリストの十字架の死によって、今までとは異なる新しい命に生きるようになる。 新しく創造され、新しい生き方をこの世において始めることができるようになるということです。 キリストの十字架の死により新しくされたということは、死んで復活したキリストを内に宿してその命に生きるということ、キリストが私たちの内に宿り、生きて働いてくださるということです。 そして、「和解させていただいた今は、御子の命によって救われる。 それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって神を誇りとします。」と言うのです。 神の栄光にあずかるという決して裏切らない希望を喜ぶ。 苦難や試練を喜ぶ。 そして神ご自身を喜ぶと言うのです。 なぜなら、神のご愛が私たちの心に注がれていることを味わうことになるからである。 何も分からなかった私たちに聖霊が注がれ、イエス・キリストに出会い、神のご愛が私たちの内に宿り、生きて働いてくださり、まったく新しくされるからだとパウロは言うのです。 神の力、神のご愛は、私たちの弱さの中にこそ働いてくださるのです。 このコロナ禍でも、私たちは神を喜び、賛美するのです。 神のご愛を味わうのです。 その喜びが生きる力となるのです。