「福音の力と神の義」 ローマの信徒への手紙1章16~17節
パウロは、「わたしは、ギリシャ人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。 それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。」と、生まれて間もない小さなローマの教会の群れに向けてこの手紙を書き送っています。 「わたしは福音を恥としない」と記されています。 よい知らせと言われるこの「福音」は、喜びを伝える言葉、湧き上がる力を与える神の言葉とでも言うのでしょうか。 パウロはこれを「恥としない」と言うのです。 パウロは律法をユダヤ教の中心で学び、それを守る指導的立場にあった人です。 その定めを疎かにするイエスの教えに我慢のならなかったパウロは、信念をもってイエスの弟子たちを懸命に迫害をしたのです。 そのパウロが、よりによってその律法によって裁かれ、見せしめのために群衆に晒された十字架のイエスを、「自分たちの救い主である」と宣べ伝える者となった。 神を冒涜する者、律法によって裁かれなければならない恥ずべき者、無力で弱い者、愚かな敗北者の象徴のようなイエスが語る福音を、宣べ伝える者となったのです。 人々からは裏切者として矢面に立って、一身に非難や中傷や陰謀、鞭打ちや投獄を引き受けてきたパウロでした。 人々にとって躓きの出来事でしかなかったイエスの十字架の出来事を、「福音だ。 よい知らせだ」と語るパウロはありとあらゆる試練を受けてきたのでした。 そのパウロが「この福音を受け入れる。 拒まない。」と、「恥としない」という消極的な言葉をもって固く決意表明しているのです。 イエスもまた、「わたしとわたしの言葉を恥じる者は、わたしがくる終わりの日には、わたしがその者を恥じる。」(マルコ8:38)ことになると語り、だから今、「福音」に語られている恵みを受け取るようにと促しておられたのです。
その理由をパウロは、「福音は、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」と端的に語ります。 「福音」は神が語りかけられるイエス・キリストを告げ知らせる、神の約束の言葉です。 その「福音」の言葉が「神の力」で、「信じる者すべて」に働いて「救い」をもたらす。 「福音」の言葉が語られて、それを受け入れるところに「神の力」が働くと言うのです。 私たちの「信仰」が、この「神の力」を引き出しているのではありません。 神がすべての人に無条件に「恵み」として、神ご自身が起こしてくださっているのです。 その神の呼びかけに聞くことから、また従ってみるところから私たちの「信仰」が始まるのです。 十字架の出来事は、今日のこの「私」に向けて、神ご自身がみ心を果たすために繰り返し語りかけてくださっている「神の力」です。 そう確信する根拠をパウロは、「福音には神の義が啓示されている。」からだ。 「初めから終わりまで信仰を通して実現される。」からだと言います。 この難しい「神の義」という言葉は、「神のもとから私たちのもとに流れてくる恵みの水路」に譬えられます。 流れのほとりに植えられた木のように、神の恵みの水によって潤い、養い、実がなる「恵みの水路」が切り開かれた事実が目に見えるようになった。 その恵みを受け取るだけ、それに応えるだけで、最初から最後まで「神の力」が実現されていく。 「信仰」は、私たちの中に働かれる「神の力」の働きです。 神から注がれる賜物です。 からし種一粒のような小さな信仰であったとしても、神のものとして自ら出来事を起こし、新しく働き始めるのです。 ペトロもパウロも自分が犯した過ちを決して恥てはいない。 むしろ、その弱さや貧しさに「神の力」が働いてくださることを体験しているからです。 「神のもとから流れてくる恵みの水路」が切り開かれている、この事実の確かさだけに信頼して歩むところに「神の力」が働き、「救い」の出来事が起こされると確信しているのです。