「人に神を求めさせるため」 使徒言行録17章22~31節
パウロは、アテネの町でマケドニア州の教会の混乱を心配して、シラスとテモテを待っていたのです。 ところが、そのアテネの町を巡ってみると、町の至るところに偶像があることに気づいて「憤慨した」と言います。 パウロは語らなければならない衝動にかられ、会堂ではユダヤ人や神を崇める人々と、またアゴラと呼ばれる広場では居合わせた人々と論じ合っていたと言います。 議論好き、新しもの好きのアテネの町の人々に興味をもたれていたのでしょう。 パウロは、「アレオパゴス」というアテネの町の裁判や評議が行われる公の権威ある場所で、文化的にも、人種的にも、信仰的にも全く異なる人々を前にして、その公の場の真ん中に立って「アレオパゴスの福音メッセージ」を語り始めたのです。
最初にパウロは数々の神の像を念頭に、「知られざる神に」という自分たちにも分かっていない神の存在に対しても像を造り、崇めているアテネの人々の思いを念頭に、「あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしがお知らせしましょう。」と語り始めたのです。 パウロは本当の神を、「世界とその中の万物をお造りになられた神」と言います。 私たちの理性の狭い中に押し込めることのできない、すべて知り尽くすことができないお方である。 人間の手につくられた神殿などにはお住みにならないお方である。 ご自身のみ心のみによって自由に大胆に働かれる、「私たちによって仕えてもらわなければならないお方ではありません。」と言うのです。 そして第二に、「すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださる神」と述べて、ご自身のみ心を果たすためには生きる命も、神のご計画に応える力も、神の存在を感じ取る霊的な力も必要なものすべてを与えてくださる。 その神を、「人に求めさせるために、人がその神を探し求め、見つけ出すことができるように」と、「神は一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせた。 そのところで、季節を決め、人々の居住地の境界をお決めになった。」 それぞれのところで遠く離れず、ふさわしい恵みを用意し、神の息吹を注ぎ信仰を与えられるお方である。 神なき世界のものとは馴染まないものであるから、私たち人間が造った金や銀や石の像と同じようなものと捉えてはならない。
パウロはこう語り終えて、「神はこの時代を大目に見てくださいましたが、今、皆、悔い改めるようにと命じておられます。 それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。」と言います。 どういうことでしょうか。 今は「神の寛容」の中にある時代であるが、終わりの時がくる。 神の前に一人一人立たされる決算の時がくる。 だから、向きを変えて神のもとに帰りなさい。 そのことを知らせるために、「すべての人に確証をお与えになった」と言うのです。 この「確証」とは、イスエを十字架に架けて裁き、神のもとから追放したという「神の真の裁き」が示されたことです。 そのイエスが背負われたすべての過ちを赦し、神なき世界に生きる者から神のもとで生きる者へと生まれ変わらせたという「神の真の赦し、救い」が示されたことです。 その「確証」のため、永遠の裁きによって追放されたイエスを、神なき世界の死者の中から復活させ、ご自身のもとに取り戻す唯一の道が用意された。 この「確証」を感謝して受け取るのか、疑って受け取ろうとしないのか、受け取ることに躊躇するのか。 金や銀や石の像を形づくり懸命に神を崇めていこうとする自分自身から解放されて、神にすでに知られている自分自身に気づいていく。 用意された「確証」を味わいながら、準備されたよみがえりの唯一の道をそのイエスとともに委ねて歩むようになると、パウロはアテネの人々に、そして私たちに訴えているのです。