「創造される清い心」 詩編51編3~14節
このダビデの「嘆きの祈り」には、サムエル記下11章および12章に記されている背景があります。 王であるダビデがその家臣、全軍を戦いのために戦地に送り出した。 自身は、エルサレムに留まっていた。 家臣であったウリヤの妻バト・シェバの姿に、ダビデは目を染めて王宮に召し入れた。 その後、ダビデは王の権威をもって、「激しい戦いの最前線に家臣ウリヤを送り出し、彼をそこに残して、軍を退却させ、ウリヤを戦死させよ」という卑劣な命令を降すのです。 ダビデの思惑通り、家臣ウリヤを死なせたと言います。 そして、ダビデはウリヤの妻バト・シェバを王宮に引き取り、自分の妻とし思いを遂げるのです。 聖書はこのことをはっきりと、「ダビデのしたことは、主の御心に適わなかった。 主は、預言者ナタンをダビデのもとに遣わされた。 主はナタンを通して、ダビデを激しく叱責した。 なぜ、主の言葉を侮り、わたしの意を背くことをしたのか。 あなたは隠れてこのことを行ったが、わたしは白日のもとにさらす。」と単刀直入にダビデに指摘したのです。 ダビデはこれに、「わたしは主に罪を犯しました。」と深く悔いています。 なぜダビデがこのような「祈り」をささげるようになったのかとその原因を探るより、この「嘆きの祈り」にある主を仰いで祈る「祈り」に合わせて、私たち自身が祈る「祈り」が与えられることを願いたいと思います。
私たちは、自分の犯した過ちを何とか正当化しようとします。 少しでも責任を軽くしよう、免れようと努めます。 これでいいと、自分を納得させようとします。 ダビデはそうではありません。 自分自身が犯した過ちは、神の目だけには明白である。 責任を免れ得ない、時を遡ってもう一度やり直しをしたいといった願いではなく、取り返しのつかないものであると告白します。 そのうえで、「神よ、わたしを慈しみをもって憐れんでください。 背きの罪をぬぐってください。」と、神の赦しがあること、救いがあることに望みを抱いて、神の憐れみと慈しみにすがろうと懸命に祈っているのです。 「憐れんでください。 ぬぐってください。 清めてください。 払ってください。 洗ってください。」と、表現はまちまちですが繰り返しています。 自分が犯した過ちを口に出して、神の前に差し出して、赦しと救いを願い出るということは、だれにも見せたくない恥ずかしいことです。 自分ではぬぐうことのできないことであると認めて差し出す勇気のいることです。 人は人知れずきれいになって、何事もなかったかのように振る舞いたいのです。 自分で洗って、もう一度やり直しがしたいのです。 自分の恥ずかしいところを認めて、さらけ出して、自分でぬぐうことができないことを認めて、神に助けを求めている。 これがダビデの「嘆きの祈り」です。 神の求められるものは打ち砕かれた霊。 神は、打ち砕かれ悔いる心を侮られません。」と確信して祈る「祈り」です。 神はこの赤裸々なダビデの「祈り」をどれほど喜んでおられるでしょうか。 ダビデは、「神よ、わたしの内に清い心を創造してください。」と祈っています。 もとのきれいなものに戻してくださいとは祈っていないのです。 「神よ、新しく確かな霊を授けてください。」と、神にしかできないこと、神から与えられなければできないことを「創造してください」と祈っているのです。 ダビデの「祈り」は後悔や懺悔の「祈り」ではありません。 新しく造り変えられることを望む「祈り」です。 今まで見えていなかった、聞くことのできなかった方向に向きを変えて、新しく生きていこうとする「祈り」です。 悔い改めは反省や後悔ではありません。 神によって授けられる「祈り」です。 神のもとから遣わされた主イエスに結ばれて、よりすがって、造り変えられて生きていこうとする「祈り」の姿です。