「わたしたちの救い主」 イザヤ書53章1~12節
イザヤ書53章は、「苦難の僕」という歌、詩です。 バビロンにイスラエルの人々が捕らえられていた時期に活動した無名の預言者、第二イザヤが記したものです。 バビロンに囚われている時期のイスラエルの民が味わっているこの苦難は、いったいどこからきているのか。 それは神の罰である、神の教えであると、イスラエルの人々は思っていた。 異国の王、ペルシャ王キュロスの手によってバビロンが崩壊して、自分たちが解放されることになったことにより、キュロス王こそ自分たちを解放してくれる救い主だと思った時期があった。 しかし、この政治的、軍事的なメシアが自分たちを救ってくれるという希望が、不毛な戦いとその悲惨な結果によって諦めと絶望に襲われていた時です。 なぜ神に愛され、選び出された自分たちが、このような苦難に遭わなければならないのかと苦しんでいた時です。 この苦難の意味が、第二イザヤによって示されたのです。 自分たちが味わっている苦難こそ、これから訪れようとする神の恵みの世界を現れ出すものである。 無力で、貧しく、虐げられている自分たちの無言の忍耐と犠牲によって、神の憐れみの世界、恵みの世界がつくり上げられていくという贖罪の苦難がここにはあると四回にもわたって繰り返し、「苦難の僕」という姿を通して預言したのです。
このみ言葉を鋭く目に留めて、地上での生き方を定めたお方が救い主イエス・キリストです。 イエスは、「わたしは、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。 異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 しかし、あなたがたの間では、そうではない。 あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕となりなさい。」(マルコ10:42-45)と言われました。 私たちは少しでも高く見られたい。 人の評価に振り回され、神経をすり減らす者です。 あくまでも自分が主人で、神でさえも自分の奴隷として利用しようとまでするのです。 しかし、イエスはこの「苦難の僕」のみ言葉に聴いて、父なる神のみ心を見て取ったのです。 私たちの病い、痛み、背き、咎のために、これからご自身が受ける傷、軽蔑、侮辱、見捨てられること、葬り去られることによって、人々に「平和が与えられる」 「人々が癒される」ことを読み取ったのです。 聖書の言う「平和」とは、争いが起きていないとか、平和宣言がなされているとか、武器がなくなるとかということではありません。 「平和が与えられる」とは、神との正しい関係、交わりが取り戻されるということです。 神との和解ということです。 忘れてしまっていた神との交わり、そのような交わりがあることさえ知らなかった者に神との交わりが回復されるということです。 「わたしは、すべての人の僕となるために、神とすべての人との和解のために遣わされた。 多くの人々が、神の赦しがあることを知るため、そして、赦されることによって命そのものが癒され、神のもとに取り戻されるために遣わされた。」と言われたのです。 最後の晩餐でご自身がパンを裂いて杯を配られたのも、五千人にパンと魚を配られたのも、ご自身のからだをささげてこの世に「イエス・キリストによって結ばれたひとつのからだ」をつくり上げるためであったのです。 私たちは、このお方を救い主として何の資格もなくいただいた者です。 このお方が私たちと一緒にいてくださる。 わたしたちの僕となって仕えて、とりなしてくださっている。 そのためにご自身の命をささげたと言われているのです。 イースターを迎え、ご自身の十字架を背負って歩まれ、「復活の道」を切り開いてくださった主イエスをしっかりと仰いで参りたいと思います。