「わたしに従いなさい」 ルカによる福音書9章18~27節
「ほかの町にも、神の国の福音を告げ知らせなければならない。 わたしはそのために遣わされたのだ。」とイエスは言われ、町や村を巡り歩き、人々の生活の隅々にまで出向いて行かれました。 そこで人々と同じように喜びや悲しみを共にされて、み言葉を語り、奇跡の業を示しながらずっと考えておられました。 「そばに来ていた12人の弟子たち」に、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」と質問されたのです。 群衆は過去に目にした歴史の中で知っている偉大な人物であると言っていると答えた弟子たちに、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とイエスは更に尋ねたのです。 この答えを、今、自分の言葉として私たちは持っているでしょうか。 12人の弟子を代表してペトロが、「イエス、あなたは神から遣わされた、神に等しい救い主、メシアです」と答えたと言います。 最初のキリスト者の信仰告白であったかもしれません。 旧約聖書が、「一つの出来事が起こされる。 それは、人が詳しく説明しても到底信じることができない出来事である」と預言しているように、神は過去の延長線上にない、全く新しい出来事を起こされる。 神のもとを離れてしまった私たちを赦して、救い出して、ご愛のゆえに取り戻すという救いの出来事を起こされる。 イエスをその救い主として遣わして、「十字架の死」という贖いの業を通して、赦して、その結果、「復活」という信じることができない出来事によって「救い」の業を起こされると言うのです。 イエスこそ、この神のみ心に従って、人間という私たちと同じ肉体の制約を背負わされて地上の生涯を送られていたのです。 父なる神はどうしても、十字架に向けてエルサレムに行けと言われる。 イエスは、「父よ、み心ならこの杯をわたしから取りのけてください」と迷いながらも、「しかし、わたしの願いではなく、み心のままに行ってください」と祈っておられたのです。 今、エルサレムに赴けば何が起こるのか、イエスには容易に予測がついた。 しかし、このペトロの答えがどれほどイエスを勇気づけたことかと思わされます。 「十字架」これ以外に、神のもとを離れてしまった人間を神のもとへ取り戻す「救い」は他にない。 ご自身がこれから辿って行く道を通ってしか、神の「赦し」への道はない。 神のもとへたどり着く道は他にないと、イエスはこの時確信したのではないでしょうか。 聖書の言うメシア、救い主とは、「僕の形をとって、人間となってこの世にくる。 人の罪を背負って、その罪の身代わりに死ぬ。」と言うのです。 ですからイエスは、「必ず、苦しみを受け、殺され、復活することになっている」と言うのです。 救い主であるなら、必ずそうなる。 それが神のみ心であると言われているのです。 イエスはメシアの受難と復活を語り終え、「わたしについて来たいと思う者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と言います。 父なる神のもとへ戻るためには、神の赦しを得るためには、「必ず、わたしがエルサレムに行って、侮辱されて、痛みを受けて、傷跡を残して、すべてのもの、命まで奪われることになっている。 神の赦しにより、恵みにより、新しく生まれ変わることになっている。 これが『救い』に至る唯一の道である。 あなたがた弟子は、このわたしの後について来なさい。 わたしがすでに十字架を背負って歩いたその道を、あなたがたは辿って従って来なさい。」と言われているのです。 イエスがすでに味わってくださった道です。 ひとりではないのです。 私たちは自分勝手、自分中心です。 イエスはその「自分」を捨てて、「わたし」に従いなさいと言われているのです。 「自分」から「イエス」へと生き方の根底を変えるように、「わたしの後を追ってついて来なさい。 わたしに信頼して従いなさい」と言われているのです。