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「侮辱されたイエスの神への信頼」 マルコによる福音書15章16~20節

2021-03-07

 イエスは夜中に捕らえられ、裁判を受け、ローマ総督ピラトのもとに残酷な十字架刑に処せられるために引き渡されています。 その時、ユダヤの祭司長、長老、律法学者たちは、「イエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、言い当ててみろ」とイエスを侮辱したと言います。 その下役たちからも、「イエスは平手打ちを打たれた。 その間、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった」とあります。 イエスを祭司長たちが引き渡したのはねたみのためだと分かっていたピラトですが、群衆を満足させようと事実を捻じ曲げて、イエスを鞭打ってから十字架につけるためにローマ兵士たちに引き渡したのが今朝の聖書箇所です。 兵士たちは、自分たちが着用していた服をもって王様の服に見立て、茨を編んで王様の冠に見立てイエスを茶化すのです。 繰り返し葦の棒でイエスの頭を叩き、唾を吐きかけたと言います。 イエスはさんざん侮辱された後、処刑場まで人々に晒されて歩かされます。 通りがかった人々からも、「十字架から降りて自分を救ってみろ」と言われ、一緒に十字架につけられた者からも、「今すぐ十字架から降りるがよい。 それを見たら、信じてやろう。」と罵られたと言います。 背中には鞭で打たれた傷跡が刻まれ、手首、足首には釘の跡が残され、愛する弟子たちからも見放され孤独となったのです。 しかし、ただひとりイエスの処刑を見届ける務めを与えられていたローマの百人隊長だけが、イエスが息を引き取るまでの一部始終を見届け、「本当に、この人は神の子であった」と告白したと言います。
 イエスはあらゆる人から愚弄され、人が拠り所とするものすべてが奪われたのです。 孤独となり社会的な存在としての命も、ついには裸にされ人としての命まで奪われてしまったのです。 それでもなすがままにご自身の身を任せられたのはなぜでしょうか。 確かにイエスは父なる神のみ心とは言え、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と洩らし、恐れ悶えておられました。 一方で、「時が来た。 罪人たちの手に引き渡される。 立て、行こう。」と覚悟もしておられました。 神のみ心が先ずあって、それにイエスが従ったとしか言いようがありません。 そうでなければ、十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言わないでしょう。 すべてが分かったわけではなかったかもしれないが、生身の人間として父なる神のみ心に祈りのうちに従ったのです。 ただ沈黙のうちに人のなすがままにさせ、すべてを失ったが、唯一、父なる神への信頼だけは奪われず、自ら進んでご自身の身を投げ出して父なる神のみ心に委ねたのです。 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。 人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6-7) 絶え間ない「祈り」によって、み声に聴き続けていたことによって、イエスが父なる神との生きたつながりを保っていたからでしょう。 沈黙のまま、唯一「神への信頼」だけを拠り所として生きる人間の姿が、人間のどん底とも言える所で示されているのです。 イエスには、ご自身の正当性を主張する人間としての誇りや自尊心といったようなものを守ろうとする動きが一切ないのです。 神への信頼をもつことができるなら、これほどの平安、喜びはありません。 人間の間でも本当に人を信じ信頼することができるのなら、これほどの幸い、喜びはありません。 信じることは「力」です。 「喜び」です。 信じることができないから、私たちは悩み、思い煩うのです。 最もふさわしいことをしてくださると神を信頼することができるなら、何も怖れるものがなくなるのです。



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