「燃えて輝くともし火」 ヨハネによる福音書5章31~44節
イエスは、「父なる神はご自身の子を愛して、ご自分がなさることをすべて子に示される。 だから、わたしは父なる神からのご愛を知っている。 父なる神のなさる働きをすべて知っている。」とご自身が神の子であることを語り続けます。 神を自分の父と呼び、自分を神と等しい者とする神を暴騰する者であるとイエスを非難するユダヤ人たちに対して、「父なる神がもっておられる命を、このわたしの内にもその命をもつようにしてくださった。 人間がこのことを証しすることはできない。 そのことを証しするものが三つある。」と言われるのです 「ひとつは父なる神自身である。 そして、父なる神がわたしに成し遂げるようにとお与えになった業が、わたしを証しする。 そして、聖書の中に記されている父なる神のみ言葉がわたしを証しする。 この三つが、このわたしが人間でありながら神がもっておられる命をもつことができるようになったこと、神からのご愛や神のみ心を知ることができるようになったこと、父なる神の国で成し遂げられる業がこの世においても成し遂げられるようにされたことを証しするのである。 わたしは父なる神のお声を聞いている。 父から注がれるご愛を受けている。 だから、この父なる神のみ心をこの世において実現するために従うのみである。 父なる神は今もなお働いておられる。 だから、わたしも安息日においてでも働くのだ。」と言われるのです。 「わたし自身は肉体の制限をもつ人間であるから、自分自身のことを証しすることはできない。 もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。 しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。 そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、悟るだろう。」(10:37-38)とまで言われるのです。 これからイエスご自身が成し遂げられようとされている十字架の業、神のご愛とご真実の結晶の働きを信じなさい。 そうすれば、神とともにあるこのわたしを知ることになるだろう。 この世の命から新しく生まれ変わって神がもっておられる命を内に宿して、神の国に生きる者となる。 聖書の中にある永遠の命に至る道は、このわたしによって示されている。 そのために、この世で非難があろうと、迫害があろうと、処刑があろうと、「人からの誉れは受けない。 唯一の神からの誉れを求める。」と言われたのです。
イエスはご自身の働きを語るのに、バプテスマのヨハネの働きを引き合いに出しています。 ヨハネの描くメシア像とイエスの姿にはギャップがありました。 神の国の認識にもイエスとの違いもありました。 十字架に象徴される「神の赦しの恵み」がヨハネには未だ見えおらず、「来るべきお方はあなたでしょうか」と尋ねたと言います。 しかし、イエスはこのバプテスマのヨハネを、「ヨハネより偉大な者はいない。 イエスご自身の歩むべき道を備えた預言者以上の者である。 神の国の訪れ直前に最後の準備をした預言者である。」と評価し、「燃えて輝くともし火」と言います。 周りの人々はその「ともし火」のもとでしばらくの間、喜び楽しむことができたと言うのです。 ヨハネの「ともし火」は限界のある、消えてなくなるようなたかが知れている「ともし火」であったかもしれない。 しかし、イエスは「このわたしに繋がる道備えをするために、精いっぱい命を燃やして、しばしの間輝いた、燃えて輝くともし火である。」とイエスは評価されたのです。 イエスの十字架によって与えられた罪の赦しを感謝して受け取って、「神の国」に新しい命に生きる者として歩むべき道の備えをしたヨハネを、イエスは「燃えて輝くともし火」と賞賛されたのです。 私たちもまた、「精いっぱい与えられたところで燃えて輝くともし火」として、主イエスに喜んで迎えられることを期待しましょう。