秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

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「見つけ出されるという出会い」 創世記16章1~12節 

2021-02-14

 アブラムは、「あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。」と神自ら約束された人物です。 そのアブラムとサライの老夫婦が10年待ち続けても子どもが与えられなかった頃のことです。 妻サライは自ら行動を起こし、ハガルというエジプト人の使用人を利用しようとします。 サライは夫アブラムに、使用人に子どもを産ませそれを自分の子どもにするという当時の慣行を進言し、アブラムはそのまま受けてしまうのです。 アブラムは未だに神の約束が果たされないでいる現状に耐えきれなかったのでしょう。 確かにサライの思惑通りに使用人ハガルは身ごもりました。 すると、ハガルの立場が変わり女主人であったサライを軽んじ始めたと言うのです。 見下されたサライはその矛先を夫アブラムに向けます。 「わたしが不当な目に遭っているのは、あなたのせいです。」と、道具のように利用したハガルへの仕打ちを忘れて、今度はアブラムの責任を盾に強く迫ったのです。 ここに至ってもアブラムは、「あなたの好きなようにするがよい。」と逃げ、別の問題が新たに起こった現実に目を向けようとせず放置するのです。 ハガルの側にも問題があるとはいえ、サライは元の自分付きの使用人として今までの腹いせとばかりにハガルに辛く当たったのでしょう。 ハガルはそれに耐えきれず、サライのもとから逃げ出したと言います。 小さな家庭に起きた、三者三様の人間の弱さを表しています。 
 亀裂が入ってしまった小さな家庭に、神はそれぞれにふさわしく分け入ってくださるのです。 アブラムとサライには、約束通り自分たちの子どもとしてイサクが与えられます。 人に利用されてその人生を奪われて、自分の立場を勘違いし奢って、それが原因で最後には一方的に逃げ出してしまったハガルにも、神さまは出会ってくださるのです。 宛てもなく漠然と故郷エジプトへ戻ろうとした一人ぼっちの逃避行のなか、「荒れ野の街道沿いの泉のほとりで、神は出会った。 そして語りかけた。」と言います。 この「出会った」という言葉は、「見つけ出された」という意味合いです。 ひとり呆然と荒れ野で佇んでいるハガルを、神は追いかけてきて、見つけ出して呼びかけるのです。 「ハガルよ。 あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」 神は、ただその場を避けたいだけのハガルに行き宛てのないことに気づかせ、自分の姿を見つめさせ、「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」と命令を下すのです。 辛さや悲しみだけから逃げ出してさまようハガルに、なぜ、神は元のところに帰りなさいと言われたのでしょうか。 なぜ、あれほど嫌がっていたサライのもとへハガルは自ら戻って行ったのでしょうか。 いったい何がハガルの心境に変化を与えたのでしょうか。 
 神はこの命令とともに、「あなたにもイシュマエルという男の子が与えられる。」という約束を与えています。 自分が身ごもっていたことも忘れていたハガルに、すでに子どもが与えられていると気づかせます。 ハガルはそこで、「あなたこそ、わたしを顧みられる神です。 行く宛てもなくさまよった私を追いかけてきて、捜し出して見つけ出してくださったからです。 主が悩みを聞いてくださったと気づかされたからです。」と告白するのです。 たとえその約束が今は祝福とは思えなくても、神の約束が与えられたのです。 祝福の外にあると思っていた存在にも神は顧みてくださるのです。 たとえ悲惨と思われるところであっても、神とともに戻れと言われるのです。 私たちが見つけ出す喜びよりもはるかに大きな喜び、神に見つけ出される喜びです。 見つけ出されるに値しない者が見つけ出される神の恵み、これが新しく人を造り変える喜びです。 目先の苦しみを避ける生き方から、争いと敵対の中にも神とともに戻っていく生き方へと変えられるのです。



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