秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

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「心が燃えたイエスとの出会い」 ルカによる福音書24章28~35節 

2021-01-31

 「一行は目指す村に近づいた。」とあります。 「一行」とは二人の弟子とイエスです。 「目指す村」とはエルサレムから歩いて3時間ぐらいの距離のところにあるエマオという村です。 二人の弟子は「イエスは行いにも言葉にも力のあるお方でした。 この方に望みを抱いていました。」と回想しているように、自分たちを解放してくださるお方であると希望をもち、エルサレムのイエスのもとにエマオから出かけて行ったのでしょう。 そこで、予想だにしなかったイエスの十字架の死に出くわしたのです。 「二人は暗い顔をして、エルサレムで起きたイエスの十字架の出来事を話し合い論じ合っていた。」と言います。 そこにイエスが旅人の姿をとって近づいて来て、一緒に歩き始められた。 歩きながら、やり取りしているその話は何のことですかと語りかけられたと言います。 二人は失望し、戸惑い、混乱している様子をありのままにこの旅人に答えるのです。 「自分たちを解放してくださるお方と期待していたナザレの人イエスが、祭司長たちによって十字架で殺されてしまった。 そのことがあってもう今日で三日が経った。 しかし、『そのイエスの遺体が墓の中にない。 イエスは生きておられると神の使いによって告げられた』と、仲間である婦人たちが知らせてくれたのです。 仲間の者が急いで墓へ駆けつけて見たけれど、婦人たちの言った通りであったと言うのです。 いったい、これはどういうことなのかと考えあぐねている。」と答えたのです。 二人の弟子は、起こされた出来事の過去に縛られて、今も「生きておられる」という常識では信じることのできない神のみ言葉に向きを変えようとしませんでした。 心が閉ざされて、共に歩きながら語り合っている旅人が墓の中からよみがえられた復活のイエスであることを見抜くことができなかったのです。
 失望し、戸惑い、混乱してエルサレムから戻って来た二人にイエスは、「預言者たちが語っていたメシアとは、このような苦しみを受けて神の栄光に与るはずだったのではないか」と、歩きながら聖書全体にわたりご自身について書かれていることを説明されたと言います。 この旅人の話に、二人はかすかな光と希望を見い出したのでしょう。 先を急いでいる旅人に、「一緒にお泊りください」と無理に引き止めたと言います。 二人の求めに応じてイエスはその家に入られて、その家の主人に替わって「パンをとり、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」その時です。 「二人の目が開け、イエスだと分かった」と言います。 すると、イエスの姿は見えなくなったけれども、「そのイエスが共に歩いてくださった。 話しかけて尋ねてくださった。 聖書の説き明かしまでしてくださった。 その時、わたしたちの心は燃えた。」と二人は告白しているのです。 イエスとの出会いを体験していなければ分からないとしか言いようのない出来事です。 イエスが選んで共に歩いてくださって、呼びかけて説き明かしまでしてくださって、食卓をともにして祝福してくださったから分かった出来事です。 二人の弟子が、イエスを自分で探し出したのではありません。 どうして選ばれたのかも分からず、吸い込まれるようにイエスに引き込まれて、常識や理性では到底信じることができないようなこと、死んだ者が生き返って生きているという姿を目の当たりにさせられたのです。 二人はこの心の高まりを携えて、その日のうちに夜にも拘わらず、今戻って来た道をとって帰りエルサレムに戻ったと言います。 心が燃えてじっとしておれなかったのでしょう。 エルサレムに戻ってみると、そこでも「本当にイエスは復活して現れた」という証言が飛び交っていたのです。 悲しみで始まった旅立ちが、今や喜びと賛美に変わる新しい旅立ちに変えられたのです。 この今もなお生きておられるイエスは、何度も繰り返し私たちにも出会ってくださるのです。



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