秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「聞かれる祈り」 ヘブライ人への手紙5章5~10節 

2021-01-17

 この手紙の中に、「大祭司はすべての人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。」とあります。 「祭司」とは、神の側に立つ「預言者」とは異なり人々の過ちを理解し、その過ちを神に執り成す務めを果たす人間の側に立つ者です。 自分自身の弱さを身にまとい、人々と同じように弱さのゆえに犯した過ちを贖っていただくために、神に贖いの犠牲をささげる人間の側の代表者です。 この手紙では、「この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、神から召されて受けるのです。 大祭司は、自分自身の弱さのゆえに、民だけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げなければなりません。」とあります。 イエスもまた同じように、ご自分で「大祭司」になったのではなく、神からその務めが与えられたのだと言うのです。 その理由は、「肉において生きてくださった」からである。 「激しい叫び声をあげ、涙を流しながらご自分を死から救う力のあるお方に祈りと願いをささげられた」からであると言います。 そして、「神の子でありながら多くの苦しみによって従順を学ばれた」からである。 自分のためではなく、人間の弱さと苦しみを背負って歩まれた「その態度のゆえに祈りと願いが聞き入れられた」からである。 人間から始まって人間に終わって神のもとに立ち帰る、神に属する者という「完全な者」となられたので、すべての人々に対して、永遠の救いの源となったと言うのです。 
イエスは、私たちと同じ肉体という制限を神の子でありながら背負われたお方です。 肉による壁によって神のみ心を感じ取ることのできないところにまで、降りてきてくださったのです。 激しい叫び声をあげ涙を流しながら、ご自分を死から救う力のあるお方に祈りと願いをささげなければならないところに置かれてしまった。 激しい心の動揺も経験して、怒りや苦しみや悲しみに、私たちと同じ感情に覆われてしまったのです。 十字架の処刑直前のイエスの「ゲッセマネの祈り」にその姿が顕れています。 「わたしは死ぬばかりに悲しい。 地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈った。」と言います。 「父よ、あなたは何でもおできになります。 この杯をわたしから取りのけてください。 しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と、「苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた」のです。 イエスのこの激しい祈りは、最終的に神に聞き入れられませんでしたが、ヘブライ人への手紙はどうして、「イエスのささげた祈りと願いは、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」と言うのでしょうか。 神の子であるイエスは神の子でありながら、父なる神を見えなくする、父なる神のみ声を聞こえなくする人間の制約を理由もなく原因もなく背負わされたのです。 人間と同じように死んでいく生涯、神に見捨てられるという霊的な死を理由なく原因など認められず味わなければならなかった。 「わたしは死ぬばかりに悲しい。 この苦しみの時が自分から過ぎ去るように、この杯をわたしから取りのけてください。」と嘆願しつつ、それでも、「わたしの願いではなく御心のままに」と、人間の悲惨な極みを経験してくださったのです。 理由なき、原因なき仕打ちを、父なる神への祈りによって私たちの過ちの理由も原因も弱さもすべて抱えてくださったのです。 このことに気づかされた時、私たちに不思議な力が湧いてきませんか。 実態は何も変わらずとも、このお方が知り尽くしてくださっていると気づかされたなら、新しい力が湧いてきませんか。 このお方との出会いによってしか得られない新しい命に満たされた時、何とも言えない喜びに包まれ、祈りが聞き入れられたと不思議な実感があるのではないでしょうか。



バナー
バナー

お知らせ

過去の記事



〒010-0917
秋田市泉中央3−2−1
TEL/FAX 018-862-5357(教会)
TEL 018-863-4228(幼稚園)
牧師 村上悦二
協力牧師 渡部元