「嘆きの中で神を賛美する」 ヨブ記1章21節 19章25~26節 42章1~6節
ヨブは、「七人の息子と三人の娘、羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭の財産を与えられていた。 東の国一番の富豪であった。」と言います。 そのようなヨブの家庭に次々と苦難が訪れるには原因があったと聖書は言うのです。 神の前に、神の使いたちとサタンが集まってきた。 サタンとは、「この地上を巡回して、方々を歩き回って」、神のもとから人を離れさせる存在です。 そのような存在を赦しておられるのは、神がご自身の救いの業の為に用いられるとしか言いようがありません。 神は先ずサタンに言います。 「お前は私の僕ヨブに気づいたか。 地上に彼ほどの者はいまい。 無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」 神はヨブをご自身の僕であると認めているのです。 ここからサタンの神への最初の挑戦が始まります。 「ヨブが、利益もないのに神に従うでしょうか。 彼の手の中にあるすべての財産に象徴される祝福が失われるなら、ヨブは面と向かって神を呪うに違いない。」と挑むのです。 人々の姿を多く見てきたサタンは、人間はただで神を畏れるものではない。 自分の幸せを図るために神を利用しているに過ぎないという確信です。 そのサタンに神は、「ヨブのもの一切、お前のいいようにしてみるがよい。 ただしヨブには、手を出すな。」と応じられたのです。 その後、牛もろばも略奪される、羊も焼け死んでしまう、らくだも奪われ、家族も失われるという災いが次々と襲ったのでした。 その時、思い切り悲しんで地にひれ伏して叫んだヨブの言葉が、「わたしは裸で母の胎を出た。 裸でそこに帰ろう。 主は与え、主は奪う。 主のみ名はほめたたえられよ。」でした。 「取り去られるものはすべて取り去られたけれども、神の名を呼び賛美することは赦されている。」とヨブは言っているのです。 自分が神の僕であるなら、神の許可なくこの私に触れることができる者などいないという確信であったのです。 サタンは更に神に挑んできます。 「人は自分自身の命のためなら、全財産を差し出すものです。 もしヨブの骨と肉が損なわれるなら、彼は面と向かって神を呪うに違いない。」と言うのです。 そのサタンに、神は「ヨブを、お前のいいようにするがよい。 ただし、ヨブの命だけは奪うな。」と応じられたのです。 ヨブはその後、全身がひどい皮膚病にかかり、体中をかきむしるまでになったと言います。 それでもヨブは、「神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と語るのです。 ヨブは神とサタンとの対話は知らされていません。 災いとも思える出来事の理由が、神が答えてくれないので分からない。 その神の沈黙に耐えきれなくなって絶望したのです。 その時にヨブに届いた神の言葉が、「お前は何ものか。 わたしが大地を据えたとき お前はどこにいたのか。 知っていたと言うなら言ってみよ。」でした。 神はヨブを御自身の僕として選び分かち、サタンの試みにも承知してずっとご覧になっておられるのです。 この苦しみの解決ではなく、神の沈黙こそ神の答えでした。 サタンの試みにヨブと一体となって支えてくださっていた神にヨブが出会うためでした。 ここまで深くご自身を知らせてくださる神と出会うためでした。 この神に答えたヨブの言葉が、「今、このようなところで、この目であなたを仰ぎます。 それゆえ、わたしは自分を退け、悔い改めます。」でした。 ヨブは自分を守るために悔い改めたのではありません。 ヨブは神を深く知るために悔い改めて、神の僕にふさわしく整えられていったのです。 神がすべてを承知しておられ、そのみ手の中で一緒にサタンの試みにともなってくださることをヨブが味わい知るためでした。 神は永遠なるものを与えようとして、過ぎ去るものを失わせご自身の沈黙をもって人の目を開かせようとされたのです。