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「神と人との交わり」 ルカによる福音書19章1~10節

2020-09-20

 エリコという町は都エルサレムの入口であり、物の流通や人の行き交いが盛んな町でした。 ローマ帝国にとってみれば、様々な税金を取り立てやすい重要な拠点であったようです。 主イエスがもう戻ることのない十字架に向かう旅の最後の町と言えます。 猛然とエルサレムに向かって、イエスが足を速めている時です。 そのエリコの道端に座って物乞いをしている盲人がイエスがお通りになることを聞いて、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」と叫んだと言います。 叫び続ける盲人に立ち止まり、そばに連れてくるようにと命じ、「何をしてほしいのか」とお尋ねになってその願いを聞き届けられたのです。
 このエリコの町でもうひとり、イエスがエルサレムを急ぐなか足を止めてわざわざ出会ってくださった人物がザアカイでした。 ザアカイは、「徴税人の頭であった。 金持ちであった。」と言います。 徴税人たちは、ローマの威光を背景に必要以上の税金を取り立て、私腹を肥やしていたのです。 当然ながら、ローマの支配下にあったユダヤの人々からは、忌々しい人々と嫌がられ、疎まれ、つまはじきにされていた人たちです。 ザアカイはその頭であったと言いますから、人々からは容赦なく徴税する凄腕の徴税人であったのでしょう。 そのようなザアカイがなぜか、このエリコの町を通りすがるイエスを見ようとします。 道端に座って物乞いをしている盲人のように、叫び声を挙げてイエスに出会うことを熱望していたわけではないが、背の低かったザアカイはいちじく桑の木に登ってまでイエスを見たいと願っているのです。 財産をもち、生活は安定し何不自由のないザアカイが、なにかしら満たされない心の渇きがあったのでしょう。 人々との交わりは断たれ、孤独にされ、いちじく桑の木の上にまで締め出された居場所のない孤独な人の姿に映ってきます。 そのようなザアカイをイエスは十字架に架けられるという大きな務めを果たす為に先を急ぐその最中でも足を止められ、側近くでご覧になって「ザアカイ」と名前を呼んで呼びかけるのです。 そして、「急いで降りて来なさい。 今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と言われる。 「ぜひ泊まりたい」というこの言葉は、「泊まることにしている。 泊まらなければならない。」という意味合いの言葉です。 道端で物乞いをしていた盲人も、いちじく桑の木の上にまで締め出されていたザアカイも、イエスが手を差し伸べるべく定められた存在であったのです。 このふたりがどのような人物であったのか、どのような行いをしていたのかに関係なく、イエスが望んで選び、立ち止まり、捜し当て、呼びかけられた存在であったのです。 これは父なる神のみ心を果たす為であった、これから向かわれる十字架のもとで贖われるすべての人々のうちのふたりであったと、イエスはその直前にこのエリコという町で示されたのではないでしょうか。 このイエスの呼びかけに、突然のことであったザアカイは、「急いでいちじく桑の木から降りて来て、喜んでイエスを迎えた。」と言います。 エリコの町の人々は、「イエスは神の子であると思っていた。 しかし、ザアカイの家に泊まるという罪人の仲間であった。」とつぶやいたのです。 このつぶやきにお構いなく、イエスの御業が果たされていきます。 ザアカイは訳が分からなかったが喜びに満たされ、イエスに委ねて行こうと小さな決断をしたのです。 当時の律法の定めをはるかに超えた償いをすると宣言するまでに、生き方そのものが変えられたのです。 そのザアカイの応答に、イエスはザアカイの家に泊まられたのです。 そして、ザアカイひとりだけでなく、その家族にも救いが訪れたのです。 アブラハムと同じ祝福を引き継ぐ者であるからとザアカイに出会ってくださるイエスは、私たちにも出会ってくださるのです。 



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