「共に苦しみ、共に喜ぶ」 コリントの信徒への手紙一12章12~26節
パウロは、「教会の群れは、キリストの体である。 その体は一つである。 一人一人はその体の部分である。 ユダヤ人であろうと、ギリシャ人であろうと、奴隷の身分であろうと、自由な身分の者であろうと、男であろうと、女であろうと、このキリストの体に繋がっている多くの部分である。」と言います。 神に選ばれた民として絶対的な誇りをもっていたユダヤ人が、異国の民と一緒にいることなど常識外でした。 社会的な身分が明確に定められていた当時の社会においては、様々な身分の人々が共に教会の中にいることなど考えられない風景でしょう。 そこにパウロは当時の社会の枠を超えて、「あなたがたはバプテスマを受けて、一つの霊によって一つに結ばれているからだの多くの部分である。」と言うのです。 ユダヤ教の神学を究めた、ギリシャ哲学の素養も備え、神に忠実に従う熱心さと真剣さには誰にも引けをとらないパウロが、信仰は学問や研究によって、あるいは人間の熱心さや努力によって与えられない。 聖霊によらなければ、「イエスが主である」と告白することはできない。 聖霊のバプテスマによって、新しい目が開かれ、新しい耳が開かれ、今までとは異なる新しい命に生きて行かなければ、「イエスが主である」と信仰告白することはできないと言うのです。
神を信じて従って行こうとする人を起こさせるのも、神に仕えて行こうとする人を用いてくださるのも、イエスが今もなお生きて働いておられる聖霊の働きです。 この聖霊は、神に祈り求めさえすれば、だれでも、いつでも、どこでも与えられると聖書は言います。 自分の弱さ、醜さを見つめて、悔い改めて新しい道を歩み始めたすべてのキリスト者に、この聖霊の賜物は注がれ、務めが託されるのです。 そのために、18節に、「神は御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれる。」と言います。 神がみ心のままに働かれるので、この聖霊を私たちがコントロールすることなどできません。 私やちは、この聖霊の賜物を受け取るだけです。 信仰は勝ち取るようなものではなく、神の裁きの前に、自分の弱さ、醜さ、とりかえしのつかない過ちをすべて差し出して、悔い改めて方向転換できることを恵みとして受け取っていくことです。 すべて主イエスが替わって担ってくださって、私たちの弱さ、醜さ、過ちが赦されて、新しく生きるようにと送り出される時に感謝していただくものです。 この聖霊の働きを小さく侮ってはなりません。 とてつもない大きな目に見えない恵みを主は天に用意してくださっています。 私たちはこのお方を主であると公に言い表し、聖霊の賜物を感謝して受け取っていくことです。 そして、聖霊の働きに大いに期待し、委ねていくことです。
22節に、「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」 24節に、「見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。」 25節に、「それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。」とあります。 神の恵みは弱いところに、いっそう明らかに現れ出るのです。 もっとも小さなところに、神の憐れみはいっそうはっきりと現れ出るのです。 この恵みを、神との交わりの中で皆で全体として受け取っていく。 「一つの部分が苦しめば、すべての部分が苦しむのです。 一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」と言います。 弱さのない、醜さのない、過ちのない人など一人もいません。 この人間の弱さ、醜さ、過ちという一つずつの部分が、この世におけるキリストの体、教会をつくり上げているとパウロは言うのです。 この一つ一つの部分を通して、イエス・キリストは聖霊となって働いてくださっているのです。 私たちその一部分は、聖霊の働きを受けて、用いられて、このイエス・キリストに仕えることができるのです。