「興されたフィリピの教会」 使徒言行録16章11~34節
フィリピの教会は、パウロたちがアジア宣教からヨーロッパ宣教へと大きく舵を切った重要な拠点です。 パウロはそのフィリピの町に最初に入る前に、聖霊の導きによってみ言葉を語ることが禁じられた場所がありました。 聖霊は私たちに様々なことを語りかけます。 その語りかけには、「してはならない。 しなくてもよい。 行かなくてもよい。 行ってはならない。」と、私たちが望んでいる道を閉ざすことがあります。 「今は動かなくてもよい。 じっと静かに神のみ言葉を待ち望め。」と、私たちをとどめようとされる時があるのです。 二度にもわたって行先を閉ざされたパウロは失意のうちに、その分岐点に立って幻を見るのです。 その幻は、「マケドニア州に渡って来て、私たちを助けてください。」と願う人の幻を見るのです。 この幻にパウロは、「神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至った」と言い、後先のことを考えもせずフィリピの町に入って行ったのです。
このパウロの確信はどこからくるのでしょうか。 神との交わり、祈りの中で神のみ心を感じ取る力が高められ、聖霊に導かれ肌で感じるようになるのでしょう。 そこで三人の人物と出会い、フィリピの教会の土台が据えられたと聖書は語るのです。 高級な紫布を商う「リディアという婦人」が先ず、神によって心が開かれたのです。 神は聖霊によって、福音を語る者を押しとどめたり、幻を与えて出向かせるのです。福音を聞く者にも、心を開かせ福音を受け止めるにふさわしく整えてくださるのです。 リディアは、「主が彼女の心を開かせたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。 彼女もその家族もバプテスマを受けた。」と言います。 神は福音を語る者も福音を聞く者も、何を考え何を最も必要としているのかよくご存じで、自ら働いて導いてくださるお方です。 続いて、「占いの霊にとりつかれている女奴隷」と表現されている女性がパウロたちにまとわりついて、「彼らこそ、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」と繰り返し叫ぶのです。 この世の霊は、イエスに触れると自らの本当の姿を熟知するものとして留まることができなくなり、イエスの霊によって追い出されていくのです。 パウロの「イエス・キリストの名によって命じる。 この女から出ていけ。」という言葉に、この女性は今まで取りつかれていたこの世の霊から解放されたのです。 彼女は、迷信や習わしやこの世の欲得に縛られていたものから解放された。 神のもとから離れさせようとする力から、神のもとに立ち帰ろうとする力に動かされるように変えられたのです。 この「女奴隷」を自分たちの利益のために利用していた主人たちは、使い物にならなくなった腹いせに、パウロとシラスを裁判にもかけないで、反ユダヤの感情のもと、治安を乱す者、暴動の扇動者としてふたりの身柄を拘束させたのです。 牢に拘束される、木の足かせをはめられる、鞭で打たれる、看守に厳重に見張られる不当な扱いに陥れられた二人は動じることなく、牢獄のもっとも奥で、「賛美の歌を歌って神に祈っている」のです。 ローマの国家権力の鎖や見張りでさえも、この二人の福音の救いの喜びを奪い去ることはできなかったのです。 何にもお返しをすることができないこの私たちが、ただ憐れみにより一方的な恵みにより救い出されるというこの喜びに勝るものが、この世のどこにあるでしょうか。 死を間近にしたときには、教えを学ぶとか、何かをするとかという時間が赦されていないのです。 そのようなところに追い込まれたパウロとシラスに、神のみ業が起こされたのです。 それに遭遇し、我をも失った「命令を受けた牢の番人、看守」は、神のみ業の前に震えながらひれ伏すことができたのです。 「主イエスを信じなさい。 そうすれば、あなたも家族も救われます。」というみ言葉が当てられたのです。 そこにフィリピの教会は建て上げられたと聖書は語っています。