「岩の土台」 マタイによる福音書7章24~29節
このイエスの譬えは、マタイによる福音書の5章から7章にかけて延々とイエスが語られた有名な「山上の教え」の最後の締めくくりとして語られている譬えです。 「岩の上に自分の家を建てた人」と「砂の上に自分の家を建てた人」が、「賢い人」と「愚かな人」と表現されています。 「砂の上に建てた家は、雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」と言います。 人生の危機に遭遇するなら、しっかりとした土台の上に自分の家を築いていなければ倒れてしまう。 だから、それに備えてしっかりとした土台を築きなさい。 これがイエスの語られたことであるかのように、私たちはとらえてしまうのです。 イエスがこの「山上の教え」を語っている相手は弟子たちです。 その締めくくりに語られた譬えです。 私たちが考えるような人生の危機に備えるためではなく、イエスがこの世で戦っておられる信仰の戦いに備えるようにと語っておられるのです。 向きを変えて、生涯をささげて、イエスが語る神を信じて従っていこうとしている弟子たちです。 今までのどうしようもない歩みが赦されて、その過ちが赦されるという約束を信じて、この神の約束の保証にかけて神の前に生きて行こうとしている弟子たちに語られたものです。
イエスは、律法の戒めを熱心に教えている「律法学者たちやファリサイ派の人々」のことをこう言っています。 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。 しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。 言うだけで、実行しないからである。 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」 「律法学者たちやファリサイ派の人々」が語る律法は神からいただいたものである。 聞いて、行ってみて、それでも守ることのできない自分の姿を見つめなさい。 神のもとを離れてしまっている本当の姿を知らされなさい。 そのあなたがたの過ちを赦すために、父なる神が語られたみ心である律法をあなたがたが成し遂げることができるようになるために、この私は遣わされてきたのである。 この神の赦しがない限り、あなたがたは神のみ心を果ことができない。 人はその罪が赦されて初めて、神のみ心を知り、気づくようになる。 神が求め、願っているような姿にあなたがたは変えられる。 「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」となる、「岩の上に自分の家を建てた者」となると、弟子たちに言われているのです。 弟子たちがそうであったように、私たちの信仰の始まりは、イエスというお方との思いがけない突然の出会いであったでしょう。 意味が分からないイエスの呼びかけのみ言葉に出会ったのでしょう。 人は、神の側からの呼びかけに応える存在です。 そのように造られているのです。 イニシアティブは神の側にあるのです。 人はただそれに応える存在にすぎません。 パウロは、「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。 イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできない。 イエス・キリストこそ、霊的な岩である。」と言います。 岩の上であろうが、砂の上であろうが、何かしらの自分の家を私たちは建てているのです。 問題はその土台です。 神のみ心を果たすためには、神のもとから遣わされてきたこの「わたし」以外の土台のうえには、「わたしの言葉を聞いて行う者」の自分の家は建たない。 この「わたし」のこれから果たされる十字架の赦しを受け取りなさいとイエスは言われる。 この体験の味わいをイエスは、「岩の上に自分の家を建てる」と表現しているのでしょう。