「行け、わたしが遣わす」 使徒言行録22章17~21節
使徒言行録9章に、パウロの劇的な回心の状況が淡々と記されています。 「天からの光が周りを照らした。」 すると、パウロは地に倒れ、目が見えなくなった。 何が起こったのか分からないパウロに、「なぜ、わたしを迫害するのかと呼びかけられた」天の声があった。 呼びかける天の声に「あなたはどなたですか」と尋ね返すパウロに、「わたしは、あなたを迫害しているイエスである。」 「起きて町に入れ。 そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」という答えが返ってきた。 この出来事を境にして、パウロは異邦人に対する偉大な宣教者として立ち上がったと言うのです。 パウロは、イエスの弟子たちを片っ端から捕らえて、エルサレムに送り込もうとした危険な人物でした。そのパウロが180度転換して、「イエスこそ神の子である」と宣教し始めたと言うのです。 このパウロの大転換を、パウロ自身が振り返っている箇所が他に22章と26章の二か所もあるのです。 使徒言行録は三度も、パウロの回心を「証し」として語るのです。
この22章の箇所によると、自分はれっきとした、ヘブライ語を話すユダヤ人です。 皆さんと同じように、熱心なユダヤ教徒で、忠実に神に仕えてきた者です。 律法についても、最大学派のガマリエルのもとで厳しい教育を受けた者です。 その律法を軽んじる「イエスを信じる者たち」を縛り上げて、獄に投げ入れ、殺しさえした者です。 大祭司や長老たちも、このことはよく知っていることです。 大祭司から、処罰する許可状をいただいて、イエスの弟子たちを処罰するためにダマスコへ出かけて行ったときのことです。 殺されたものとばかり思っていたナザレのイエスが、この私に現れて呼びかけてきたのです。 その呼びかけは、「立ち上がってダマスコへ行け。 しなければならないことは、すべてそこで知らされる」というものでした。 目も見えず、人の力を借りなければダマスコへ入ることのできなかったこの私が、人の手を借りて、またアナニアという人によって目が見えるようになって、事の成り行きを教えてもらったのです。 「神がこの私を選んだ。それは、み心を悟らせ、死んで復活したイエスに出会わせ、呼びかけを聞かせるためだった。 すべての人に、そのイエスの証し人となるためだった。」と聞かされたのです。 すると、元気を取り戻し、バプテスマを受けてすぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」とイエスのことを宣べ伝えるようになったのです。」と、パウロは切羽詰まった状態の中でも切々と自分自身の回心について「証し」を語ったのです。
「証し」をするために選ばれたのは、このパウロだけでしょうか。 「証し」をするということは、イエスによって生まれ変わった者でなければできないことです。 神の子と変えられた者でなければ、「証し」を託されることはありません。 本人にしか、言い表すことのできない恵みです。 ひとりの人が生き方を通して語る「証し」こそ、神の国の宣教の業の根源です。 この意気揚々と語るパウロに、厳しい現実が襲います。 この証人となって語る「証し」がなぜ受け入れられないのですかと、神殿で憔悴しつつ祈っているパウロの姿があります。 神のみ心は、パウロの思いとはかけ離れたものでした。 そこでパウロに語られたイエスの呼びかけは、「急げ、すぐエルサレムから出て行け。 わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。」というものでした。 パウロの同胞のユダヤ人の救いのために遣わされるというパウロの思いはことごとく砕かれて、まったく別の異邦人たちのところへの「証し人」の働きが与えられたのです。 「神の思いは、わたしたちの思いとは異なり 神の道はわたしたちの道と異なる」(イザヤ55:8)のです。 神は、私たちの思いを神のみ心へとつくり変えてくださるのです。