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「神のみ心だけに従ったイエス」 ヨハネによる福音書7章10~18節

2019-01-20

 イエスは、エルサレムから遠く離れたガリラヤ地方を巡っておられました。 病人を癒す。 盲人の目を癒す。 次々に繰り出すイエスの不思議な業に、人々が大勢集まってくる。 その有様を目の当たりにしたイエスの兄弟たちは、「仮庵の祭りが近づいてきている。 大勢のユダヤ人たちが都エルサレムの神殿に集まってくる。 そこで、あなたを公に知らせなさい。 そうすればもっと多くのあなたの弟子が生まれるだろう。」とイエスに進言するのです。 そう言われたイエスは、ご自身のことについては無頓着でした。 「あなたがたは祭りに出かけていくがよい。 わたしは、わたしの時がきていない。 わたしはガリラヤに留まり、エルサレムの祭りに上っていかない。」と、イエスはその兄弟たちに答えるのです。 ユダヤの人々にとって、この仮庵の祭りにエルサレムに出かけて行くことは義務でした。 出かけて行かないことは、むしろ、習わしには反することで勇気のいることでした。 ところが、イエスの兄弟たちがエルサレムに上って行ったとき、イエスは「人目を避けて、隠れるようにして、エルサレムに上って行かれた」のです。 どうしてでしょうか。 その理由がここには一切書かれていません。 それどころか、エルサレムでは祭司長や律法学者たちがイエスを捕らえようとして探し回っている。 群衆の中にも、「イエスは群衆を惑わしている」と言う者もいたほどです。 そのような危険なエルサレムに敢えて、「人目を避けて、隠れるようにして」イエスはその中に入って行かれたのです。 そしてついには、仮庵の祭りが半ばにさしかかったころ、よりによってエルサレムの中心にある神殿の境内で、イエスは大胆にもその姿を表して、「群衆を惑わしている」と言われていた自らの教えを堂々と語り出したというのです。 このイエスのお姿の変わり様は、いったいどうしてなのでしょうか。
 イエスにとっては、父なる神の定められた時に今が満ちているかどうか、これが最大の関心事でした。 イエスは人の感情や言葉によって動かないのです。 だれが何を言い、自分がどう扱われようが構わないのです。 ただ、神の定められた時であるのかどうか。 神のみ心がどこにあるのか。 神のみ言葉にご自身が従っているのかどうかだけです。 これがイエスのお姿の原点です。 イエスご自身には、「自分」がまったくなかったのです。 「わたしの教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。」(7:16) 「わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったのだ。」(12:49) 「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。 しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人である。 その人には不義がない。」(7:18)と言われたのです。 イエスがガリラヤに留まったのも、人目を避けて隠れるようにしてエルサレムに入って行かれたのも、大胆にもっとも人の目につくエルサレムの神殿で教え始められたのも、ご自身をお遣わしになった方の栄光を求めて従ったイエスの歩んだ足跡の一つ一つです。 イエスは時が満ちたなら、神がお命じになったとおり、時には慎重に、時には大胆に、神のみ心が成し遂げられる最後、十字架のうえの死に至るまで従い抜かれたのです。 
 イエスは、神のもとから直に遣わされた最初の人です。 神のみ心だけに従って、父なる神のもとへ戻って行かれた最初の人です。 イエスはご自身の命をもって、その生涯の姿をもって神のみ心を果たされたのです。 神のご愛とご真実を、私たち表してくださったのです。 弟子たちはこのイエスの人格に触れて、注がれた神の愛を知って、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」というイエスのみ言葉を思い起こしたのです。



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