「実りを待っておられる神」 イザヤ書5章1~6節
「ぶどう畑の歌」と書かれています。 収穫感謝のために人々がたくさん集まっていた時に歌われた、預言者イザヤの歌です。 ぶどうの収穫後の秋のお祭りです。 酒もふるまわれたでしょう。 踊りや歌もあったでしょう。 人々が繰り広げた光景は、収穫を喜び楽しむお祭りであったでしょう。 イザヤに歌わせている神は、「わたしは、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。 よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。 その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。 わたしはぶどう畑のためになすべきことはすべて行った。 わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに、酸っぱいぶどうが実った。」と言うのです。 この歌の後には、人々が物質的な繁栄の中で犯している過ちについて憚ることなく延々と歌い続けるのです。 その歌の中味は、「神を忘れてしまっている、神の戒めを忘れて神の約束の言葉を侮っている。」、そのように指摘する言葉が延々と続くのです。 何千年経っても一向に変わらない、私たち人間の姿です。 イザヤを通して神は語られるのです。 「私は、実りを歌かにするために肥沃なぶどう畑を用意した。 実りをもたらすためにできることはすべてした。 良いぶどうが実るのを待っていたのに、この有様である。」と、喜び祝う人々を前にして神は語られたのです。
しかし、こう語るイザヤの神は私たちの神であるはずです。 イザヤの神は、イエス・キリストの父なる神であるはずです。 イエス・キリストを私たちのところにわざわざ遣わされたお方であるはずです。 イエスは「ぶどう園と農夫」の譬えを用いて語っておられます。 「ある人がぶどう園を作り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。 ところが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋叩きにして、何も持たせないで帰した。 再び送られた僕も、頭を殴り、侮辱した。 最後に送られた僕も殺してしまった。 ぶどう園の主人が自分の息子を送れば敬ってくれるだろうと思って遣わした息子もまた、捕まえて殺し、ぶどう園の外に放り出して、ぶどう園の実りを自分たちのものにした。 果たして、このぶどう園の主人はこの農夫たちをどうするだろうか。」と警告されています。 イザヤが歌った人々の過ちの姿と同じように、イエスの語る身勝手な農夫たちの姿こそ私たちの姿です。 主人である神から責任を問われても仕方のない者です。 私たちが父なる神から責められても仕方のない者であると十分承知の上でそれでもなお、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。 わたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」と語ったうえで、イエスは「実のならないいちじくの木」の譬えをお話になったのです。
「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。 ぶどう園の主人がそこで園丁に言った。 もう3年もの間、このいちじくの木に実を探しにきているのに、見つけたためしがない。 だから切り倒せ。 なぜ土地をふさがせておくのか。 園丁は答えた。 ご主人様、今年もこのままにしておいてください。 木の周りを掘って、肥しをやってみます。 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。 それでもだめなら、切り倒してください。」 この「今年もこのままにしておいてください。」と主人に執り成している園丁がいることを、私たちは忘れてはなりません。 私たちの身勝手な過ちの背後に、このイエスのとりなしの祈り、十字架の贖いがあることを決して忘れてはならないのです。 このイエスの十字架によって赦されていることに、私たちは気づいていなければならないのです。 このイエスに出会って結ばれたという実りが必ず実現されると、神は約束してくださっているのです。