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「実を結ばせ、恵みを芽生えさせる神」 イザヤ書45章1~10節

2018-12-30

 ノアの箱舟の物語の起きてしまった大洪水の出来事だけを見れば、自然災害でしか見えないでしょう。 ノアとその家族は、この大災害に備え周到な準備をした。 災害から身を守るための「箱舟」を造る努力をしていたということになるでしょう。 しかし、創世記はそのようには語っていないのです。 「神に従う無垢な人、神と共に歩んだ人」と書かれているノアに、災害の予告の神のみ言葉がかけられました。 神が命じられたとおりに、ノアは箱舟をつくり、箱舟に乗り込み、箱舟に留まり続け、来るべき時に箱舟から出たのです。 ノアは、人間の思いをはるかに超えた、神のみ心の業を体をもって体験した人物となったのです。 すべての望みが失われてどうすることもできないところに立たされて、神のみ心に委ねるしかないところに立たされて初めて、新しく用意された神の祝福にたどり着いたのです。 信じることができないところに立たされて、それでも神のみ言葉に従ったノアが、滅びから救いへという大転換に導かれたというのがノアの物語でしょう。 
 イザヤを通しても主は語っています。 敵国のペルシャ王であるキュロスでさえも、ご自身のみ心を果たすためには用いると主は言われます。 ご自身の民を守り、導くためには、どのような者も、どのような出来事も用いられる。 そして、「わたしが主、ほかにはいない。 わたしのほかは、むなしいものだ。 わたしをおいて神はいない。」と宣言し、「わたしは、光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者だ。」と言われるのです。 神は相反するものと思われるような「光も闇も、平和も災いも創造する者」である、一切のものを造る者であると言われるのです。 事実、バビロニアに征服され捕らえられていたイスラエルの民が、ペルシャがバビロニアを滅ぼすことによって故郷に戻ることができるようになったのです。 これこそ、目の前のことだけに目を奪われている私たちには見えてこない神の業です。 しかし、私たちに霊の目がひとたび与えられるなら、この世の成り行きでさえ神の業を見ることができるのです。 私たちのところに遣わされた主イエスを通して見るなら、神のみ心がこの世において果たされていく有様を私たちでも感じ取ることができると言うのです。 神は、「暗闇に置かれた宝、隠された富を与える。」と言います。 先が見えない暗闇に、私たちは立ちたくはありません。 避けて通るように動くでしょう。 しかし、神は、暗闇に立つなら、そこには「隠された宝」があると言うのです。 暗闇に投げ込まれるなら、その恐れから救い出されたいと願うでしょう。 その暗闇にこそ、「隠された宝」を置くと言うのです。 その「隠された宝」とは何でしょうか。 「わたしをおいて神はいない。 光も闇も創造する者である。 平和も災いも創造する者である。」と言われる、その神が遣わしてくださったイエス・キリストです。 そのイエスが架かってくださった十字架です。 十字架という死刑の道具を使って、哀れな僕の姿をイエスに引き取らせて、この世に侮らせて、捨てさせて、その姿と言葉によって私たちを救い出すという、分かりづらい隠された出来事です。 イエスを、「弱い者、苦しむ者、悲しむ者、貧しい者」の姿に落とし込んで、救いの歴史の総仕上げを神がなさったという出来事です。 イエスはご自身の使命を、暗闇から光へ、災いから救いへと導くこの「隠された宝」であると読み取られたのではないでしょうか。 イスラエルに災いを置かれたのも、ペルシャ王に力と成功と繁栄を与えられたのも、バビロニアに滅びを与えられたのも、イスラエルを再び帰還させたのもすべて神です。 神は、光も闇も起こされます。 平和も災いも起こされます。 私たちに与えるのも、取り上げるのも、その神です。 すべての者が、神が主であること、神以外に神はいないことを、地が開いて、救いが実を結ぶように、恵みの御業が共に芽生えるようにと願っておられる神を私たちが知るためです。



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