「イエス・キリストの願い」 ヨハネによる福音書17章20~26節
ヨハネによる福音書17章は、十字架に架けられる直前のイエスの祈りです。 その後半部分から、「彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。」と祈っています。 「彼ら」とは、最後の食事を共にした弟子たちです。 これからイエスによって遣わされて行く者たちです。 その「彼らの言葉によってわたしを信じる人々」、これから「イエスを信じるようになる将来の人々」のためにも、イエスは祈り始めておられるのです。 最初に、「すべての人を一つにしてください。」と祈ります。 イエスが父なる神の内にいるように、父なる神がイエスの内におられるように、「一つにしてください。」と祈っているのです。 イエスがこの「とりなしの祈り」をささげているのは、今まで出会った人たちも、これから出会う人たちも、すべての人が一つになるため、完全に一つになるためであると言うのです。 パウロが、「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかりと組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられていくのです。」と言っている通りです。 パウロの言う「自ら愛によって」という「愛」とは何でしょうか。 私たちすべてを覆う大きな「神の愛」です。 私たちはこの「神の愛」に結ばれている。 この姿をこの世が見て、神に愛されていると知るようになるためである。 神がイエスにお与えになった自らを指し示す「輝き」が現れ出ていることを、この世が見るためである。 神と一つとなっていることを、この世が知るためである。 この神自らが指し示す姿こそ、最高の証しであるとヨハネによる福音書は言うのです。
しかし、私たちだけの力でそのような姿を映し出すことなど不可能です。 神自ら働いてくださらなければ、現れ出ないものです。 ですから、イエスは今の弟子たち、これから弟子となる私たちのうえに27節で祈っておられるのです。 「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。」 これは、私たちの「祈り」ではありません。 イエスが十字架を直前に、私たちのために祈ってくださっている「祈り」です。 私たちは何があろうと、何に出会おうとも、イエスとともにいることができる。 イエスと共に生きることができる。 「死んだ方、否、むしろ、復活された方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。」とパウロは言っている通りです。 私たちはこのお方から祈られているのです。 イエスとともにいる。 イエスに結ばれている。 イエスと共に生きることが、私たちが一つになるということです。 ナザレのイエスは、ごく限られた人々に見守られて人間として誕生されました。 霊が鳩のようにイエスのうえに降ってきた。 これがわたしの愛する子、わたしの心に適う者という神の声が聞こえた。 成長してバプテスマを受けられて、その満たされた霊に導かれて、この世の試みに遭われた。 神との交わりを「祈り」によって保ち、み言葉に立ってその試みを潜り抜けた。 この世にあって、この世のものではないことを知らされ、神のもとへ帰っていくことが神のみ心であると知らされた。 そして、自ら十字架の死を引き受けて、すべての人間の死を引き受けて自らも死者の中に加えられた。 しかし、その死者の中から、神がイエスを引き上げて、復活させご自身の懐へ戻し入れられた。
この神のみ心を果たしたナザレのイエスがこの時、キリストなるイエスに変えられた。 これが人間ナザレのイエスの地上での歩みではなかったでしょうか。 ナザレのイエスがすべての人間の歩む道として歩まれた道と語られた言葉こそ、私たちが歩むべき道、道しるべです。