「水がぶどう酒に変わるとき」 ヨハネによる福音書2章1節~11節
イエスが行われた業は、多くの場合、病気の人々やからだの不自由な人々を招き、癒して再び送り出すこと、汚れた霊にとりつかれた人々を解放すること、嵐を静めることなどでした。 ところがこの福音書は、イエスのなされた最初の業が「婚礼」という場で、「水がぶどう酒に変わること」であったと言うのです。 この「婚礼」の場にイエスの母がいた。 その母が、「婚礼」に大事なもの、ぶどう酒が今や尽きてしまうことにいち早く気づいた。 気づいた母が、息子イエスに訴えたがそっけない。 訴え出た母を「婦人よ」と呼びかけ、「わたしの時が来ていない」と答えたと言うのです。 明らかに、この対話は母と息子の会話とは思えない。 ヨハネによる福音書は、この「イエスの母」を私たちの代表として語りかけておられるのではないでしょうか。 これから「わたしの時」がやってくる。 その時まで待ちなさいと呼びかけておられる。 母は、息子イエスの語る「わたしの時」の意味も、何をしようとしているのか、いつやって来るのかわからなかったでしょう。 しかし、母は息子イエスが語り出す時まで、動き出す時まで祈り、待つのです。 もし語り出すなら、動き出すなら「そのとおりにしてください」と召使たちに命じて備えているのです。 自分の願いがどのような形にしろ、必ず果たされるという息子イエスに対する母の期待と確信に満ちているではありませんか。
イエスの言う「わたしの時」とは、いったい何でしょうか。 ヨハネによる福音書は、「主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民の恥を地上からぬぐい取ってくださる。 わたしたちは待ち望んでいた。 この方がわたしたちを救ってくれる。 この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。 その救いを喜び踊ろう。」(イザヤ25:8-9)とイザヤが預言していたお方こそイエスであると言っているのです。 「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」と冒頭で宣言しているとおりです。 その前兆としての最初の「しるし」が、「水がぶどう酒に変わること」であった。 まったく新しい味のぶどう酒によって満たされることであったと言うのです。 そのために、戒めを守る清めに用いる「石の水がめの水」をイエスは用いられたのです。 用意されていた古い酒でも、戒めによる洗い流すための水でもなく、イエスが汲んで運ぶようにと命じられた「新しく味付けされたぶどう酒」をもって、「婚礼」を喜びに満たされたのです。 この「新しく味付けされたぶどう酒」こそ神の賜物です。 それを分け与えるために遣わされたお方がイエスであった。 新しい時がやってきた。 その「しるし」が、今、ここに現されたと言うのです。 「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。 それで、弟子たちはイエスを信じた。」とあります。 5人の最初の弟子たちは連れて来られて、「婚礼」に招かれただけの人たち、見ていただけの人たちです。 イエスはご自身がどのようなお方であるかを示すために、私たちを招いて「しるし」を表しておられるのです。 私たちを祝福するために、招いて、ふさわしいところに連れ出して、ご自身の姿を表して、見せて、ご自身を信じる信仰を引き起こしておられるのです。 私たちの手前勝手な祈りや信仰を、神から命じられることができるように、また神の時、神の業が現れ出るまで待つことができるような信仰にする、そのための「しるし」を与えてくださっているのです。 私たちはその奇跡の結果に目を奪われることなく、奇跡を起こしてくださっているお方の思いを憶えることです。 そのために、私たちを「婚礼」の席に招いてくださっている。 近づいてきてくださって、呼びかけて、連れ出してくださっているのです。 私たちはただ招かれているにすぎません。 最初の弟子たちと同じように、イエスのみ言葉に聞いて、従って、その招きを受け取るだけです。