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「解放してくださるお方」 マルコによる福音書5章35~43節

2018-08-26

 会堂長のヤイロという人物がイエスにひれ伏しています。 「会堂長」とは、ユダヤ教の信仰の指導者のことです。 「会堂」とは、当時のユダヤ社会では今で言う「教会、裁判所、学校、役所」であったのです。 その場所の責任者が「会堂長」です。 人格者であり、信仰の厚い人であったでしょう。 その会堂長ヤイロがイエスに、「わたしの幼い娘が死にそうです。 どうか、おいでになって手を置いてやってください。 そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」と、恥も外聞も捨てて、捨て身の願いをイエスにぶつけたのです。 新しい教えを宣べ伝え、多くの病いを癒していたイエスに触れることができるなら、自分の娘は癒されると信じ込むに至っていたのです。 その願いに応えたイエスの姿が、幼い娘が待っている家に向かいヤイロと一緒に歩き出した姿でした。 大勢の人々が求めているそのイエスが、自分の娘のためだけに足を踏み出し、自分の家に向かって共に歩いてくださっている。 ヤイロは「これでわたしの娘は助かる」と確信したのではないでしょうか。 
 その時です。 ひとりの女性が群衆に紛れ込んで、イエスの服に触れたのです。 どんなにお金をかけても、どんな医者に診てもらっても治らない難病を長年抱えていた女性でした。 ヤイロと同じように、「このお方の服に少しでも触れるなら、癒していただけるのではないか」と思った。 イエスはその時、自分のからだから力が出ていくのが分かった。 イエスは服ではない、「わたしに触れた」と言います。 女性は難病から逃れられたい、その一心でイエスに近寄りその服に触れたのです。 そのとたんに、その病いが癒されたことに気づいて、恐ろしくなって震えていた。 その女性を、イエスは探し出して語りかけようとなさるのです。 なぜなら、苦しみや悲しみがなくなるようにとひたすら願っていたその女性に、「あなたの祈りがあなたを救った。 安心して行きなさい。 元気に暮らしなさい。」と語るためです。 今まで縛られていた苦しみや悲しみに支配されないよう、平安のうちに暮らしなさいと呼びかけるためです。 私たちは、遠くに立ってイエスを眺めているだけでは、この言葉を直に聞くことはできません。 イエスの呼びかけに応えて、震えながらもありのままの自分をさらけ出していくなら、「あなたの信仰があなたを救った。 安心して行きなさい。」というイエスの語りかけを直に聞くことができるのです。 
 イエスのそば近くで、この出来事の一部始終を目の当たりに見ていた会堂長ヤイロのもとに知らせが届きました。 「お嬢さんは亡くなりました。 もう先生の手を煩わすには及ばないでしょう。」という知らせでした。 ヤイロは失望した。 この難病の女性に手間取らなければ、自分の娘は助かったかもしれないと思ったでしょう。 病気は癒せても、死んだ者をよみがえらせることはできないだろう、すべては終わったと思ってしまった。 イエスはあらゆる病いや煩いを癒されたガリラヤでの働きの締めくくりに、「ヤイロの娘の死」に立ち向かわれたのです。 「恐れることはない。 ただ信じなさい。」とイエスに言われても、ヤイロはその場を去って行くこともできたでしょう。 しかし、ヤイロは絶望しながらもイエスとともに歩き始めているのです。 病気が癒されるだけでなく、縛られていたものから解放されるというイエスの救いの働きの一部始終を見ていたヤイロは、吸い込まれるようにイエスとともに歩き出したのではないでしょうか。 その時聞いたイエスの言葉が、「タリタ、クム 少女よ、起きなさい。 死んだのではない。 眠っているのだ。」という言葉です。 いずれ朽ちてしまうこのからだが再び生き返ることではなく、これは終わりの日に体験する出来事でしょう。 その信仰が、今、この時、この世に与えられたとイエスは宣言しているのではないでしょうか。 信仰は、私たちのうちに働く神の働きです。 私たちはただ、与えられる神の恵みをこの信仰によって感謝して受け取り、み心に委ねるだけです。



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