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「神からいただく賃金」 マタイによる福音書20章1~16節

2018-07-22

 私たちは神ご自身を知り尽くすことも、「神の国」を理解することもできない存在であると聖書は言います。 イエスご自身でさえも、「神の国」はこういうものであると人間の言葉で語り尽くすことができない。 「次のようにたとえられる」としか、言いようのないものであると言います。 「神の国」とは、「ぶどう園の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために出かけて行くようなものである。 一日につき、1デナリオンを払うという約束で、労働者に声をかけてぶどう園に送るようなものである。 働き終えて夕方になって、ぶどう園の主人が約束通り賃金を払うようなものである。」と、イエスは譬えます。 私たちは、働く者の側の姿に目を留めるでしょう。 なぜ、一日中働いた人とわずか一時間しか働かなかった人と、同じ賃金であるのかと思ってしまう。 「1デナリオン」とは、その当時の一日あたりに払われる常識的な一人の賃金です。 ぶどう園の主人の呼びかけは、夜明けから始まって、5回にも亘って繰り返し行われます。 日没まで、あとわずかな夕方5時ごろに至っても、主人は「まだ、だれも雇ってくれないのです」と答える人たちを見つけて、「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか。 あなたたちもわたしのぶどう園に行きなさい。」と呼びかけるのです。 そして、一日の仕事が終わって賃金を払う段になって、ぶどう園の主人は、なんと最後に働きに加わった人たちから先に、賃金を払うと言うのです。 なぜ、この譬えの風景が「神の国」だとイエスは言われるのでしょうか。 
 ぶどう園の主人は「神」です。 夜明けから立って働きの場を求め、呼びかけに応えて一日中働いた人は、「私たち」です。 日没間近になってもまだ働きの場がなく途方に暮れている人たちも「私たち」です。 「神の国」は、「神」がまず出かけて行って働く世界です。 その神の働きかけに応えて出かけて行く。 私たちの人生のふさわしいところで、ふさわしい時に、神は招いてくださる。 その都度、その人にふさわしい約束された賃金「1デナリオン」という恵みが与えられる。 「神の国」で支払われる神の報酬は、働く時間も、順番も大きな問題ではないようです。 イエスの念頭には、夜明けから働いているユダヤ人たちの姿があります。 一日中働いた人は、当然の報酬として1デナリオンを受け取るでしょう。 しかし、日没間近になって招かれた異邦人たちは、身に余る報酬として同じ1デナリオンを感謝して受け取るでしょう。 後から来た人たちと自分たちの賃金が同じであると知ったユダヤ人たちは、「この連中となぜ同じ扱いになるのか」とつぶやき始めます。 私たちはこの世で、自分がどのように扱われているのかに異常な関心を持ちます。 この世に報いを求め、人と比べます。 この世の報いに縛られています。 イエスは、この世と「神の国」とはまったく違うと言います。 「神の国」は、神自ら働いて呼びかけてくださる世界です。 その招きに従って出かけて行く。 その場所で働くことができること、それが私たちに与えられた賜物、恵みでしょう。 人にとっては、夜明け間近の時であったかもしれない。 真昼間の暑い最中の時であったかもしれない。 日没間近の時であったかもしれない。 神の招きには、時も順番も大きな問題ではないのでしょう。 与えられる恵みの中味に目を向けると、賜ってくださったお方を見失う。 人と比べる。 しかし、呼びかけてくださったお方に目を向けるなら、すべての人は同じ1デナリオンを感謝して頂くのではないでしょうか。 神が呼びかけて招いてくださる、その時です。 私たちは約束の1デナリオンという自分にふさわしい恵みを、当然のこととして受け取るのでなく感謝して受け取ることです。 「神の国」の門は、すべての人に 開かれているのです。 「1デナリオン」とは、神からの報いです。 私たちはいったい誰からの報酬を求めるのでしょうか。 神からの報酬は、「主の名のために捨てた者は皆、百倍もの報いを受ける」と言われた、決して消えることのない天に積む神の報いです。 



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