「神の訪れてくださる時」 ルカによる福音書19章41~44節
聖書に記されている神の民は気づいたのです。 この地上の時の流れを打ち破るものがある。 時に流されないで決して変わらず、この限界ある地上の命を乗り越えるものがあることに気づいたのです。 詩編90編に、「あなたは人を塵に返し人の子よ、帰れと仰せになります。 千年といえども御目には、昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。 ・・・人生の年月は七十年程のものです。 健やかな人が八十年を数えても 得るところは労苦と災いにすぎません。 瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。 ・・・生涯の日を正しく数えるように教えてください。 知恵ある心を得ることができますように。」と歌われています。 自分たちの存在ははかないものである。 いつまでも同じように続く存在でないことをよく知っている。 神が「塵に帰れ」と言われる存在に過ぎないこともよく分かっている。 神を知るということ、この地上の時に縛られない永遠の世界があることを知るということが知恵の始まりであると、旧約聖書の時代の人々は知ったのです。 日本人もまた、「無常観」を敏感に感じ取っています。 イスラエルの人たちもまた、「肉なる者は皆、草に等しい。 永らえてもすべては野の花のようなもの。 草は枯れ、花はしぼむ。」と語っている。 しかし、彼らはそこに変わることのない神の言葉を見つけ出したのです。 「草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」ことを見出したのです。 神が事を起こされる時には、先だって神の言葉が必ず与えられる。 ですから、その通りに神の言葉は成し遂げられる。 私たちがその言葉を拒んでも、聞き取らなくても、受け取らなくても為し遂げられていく。受け取る側の状況にはまったく関係なく、その言葉通りに果たされていく。 神の言葉は変わらない「神の約束」であることに人々は気づいたのです。
主イエスは、最後の十字架の務めを果たす直前に、父なる神への祈りの中でこう祈っています。 「父よ、時が来ました。 あなたはあなたの子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。 そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったこの私を知ることです。」と祈っている。 そう祈られて、「時が満ちた」と言い、エルサレムに入って行かれようとしたのが今日の聖書箇所です。 エルサレムとは、神の救いの業がなされるところ、語られたみ言葉通りに救いの業が果たされるところ、そのために神がイエスの姿をとって訪れてくださったところであるのに、「神が訪れてくださる時をわきまえていたなら・・・」とイエスは嘆いておられる。 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。 だが、お前たちは応じようとしなかった。」と嘆いておられるのです。 神の言葉に聞き、神に出会うことを、私たちの短い生涯に赦された理由は、私たちが滅びてしまわないで生きるためです。 神が訪れてくださっているのは、私たちが神の霊によって与えられた知恵と力によって新しく生きる者となる。 神の似姿に造り変えられて、神が求めておられるようなものになるためです。 私たちこそ、その神の霊が内に宿ってくださる「神の神殿」であると言われている。 パウロは、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」とまで言っている。 私たちは自分を神としてしまって、自分を自分のものだと思っている。 そうではないのです。 私たちが与えられている命とからだは、神が宿るべき神殿です。 神のものです。 神が私たちのところに降って来てくださって、訪れてくださるところです。 イエスのお姿こそ、神がこの世界に訪れてくださった決定的なしるしです。