アブラハムとともに歩んだサラの生涯
「サラの生涯は百二十七年であった。 これがサラの生きた年数である。」と書かれています。 何とも言えない言葉の響きを感じます。 サラというひとりの女性の生涯が127年であった。 これが彼女の生きた年数であったと念押ししている。 127年という年月が、サラの歩んだ地上の生涯であった。 これが、サラというひとりの女性に神が与えられた命であった。 サラにしか与えられていない年月であった。 その年月が、神にひとつずつ数えられていた。 神に生きることが赦された年月であったと言っているように聞えてきました。 その終わりが訪れた。 サラは死んだと聖書は告げています。 しかし、サラはどのような人生を送ったのかは書かれていないのです。 すべて、アブラハムの生涯とともにあったということです。 アブラハムが、行き先を知らないで故郷を棄てて旅立った時、「妻サラと共に、神が示す地に向かって出発した」とだけ書かれているのです。 夫アブラハムは、人間的にみれば破天荒な生き方です。 神のみ言葉だけを頼りにする旅人です。 生活の安定などありません。 自らの危険を顧みず、闘ってしまう夫です。 年老いてやっと与えられた一人息子でさえ、神の求めに応じて手にかけてささげてしまおうとする夫です。 この世のことには無頓着です。 しかし、理由は分からないが、その時々、所々で、夫は神によって守られている。 必要なものはその都度与えられていると、その傍らで妻サラが味わっていたことも事実でしょう。 サラの祝福は、夫アブラハムに注ぎ込まれていた神の祝福とともにあった。 それは、サラが偉大であったから、サラの人格が素晴らしかったからではない。 サラも神の約束を信じることができなくて、自分の召使いを利用して自分の知恵をもって子どもをもうけてしまう。 その召使いと生まれた子どもが気に入らなくなれば、親子ともども追い出してしまう。 そうであっても、サラは、神の祝福のもとに留まり続けたということでしょう。 その妻サラを失ったアブラハムが、「サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ。」とあります。 そして、「サラの遺体の傍らから立ち上がり」とあります。 この地上に富を得ることには無頓着であったアブラハムが、サラを失って初めて、葬るためのわずかな土地を所有しようと思った。 サラを失った悲しみからでも、サラの供養のためでもない。 妻サラが生きた127年の間に起こされた神の祝福の「証し」を、この地上の人たちの見ている前で、立ち会いのもとで、自らの痛みをともなって「証し」したいと本心から願ったのでしょう。 生涯の最後に残された働きがそこにはあると、亡くなった妻の遺体の傍らにある悲しみから立ち上がったのでしょう。 アブラハムは、墓をつくることが目的ではありません。 生涯の地上に生きた「証し」、そこが絶望の死、悲しみから神の国に至る希望の「証し」となる。 新しい命に生きる出発点となる。 アブラハムはサラを失って初めて、この地上の「証し」を立てるために「立ち上がった」のではないでしょうか。 アブラハムはサラの死後初めて、今まで漠然としていた「祝福の源」としての働きに気づいたのではないか。 アブラハムに注がれ続けた「神の祝福」のもとを離れることなく留まり続けたサラの生涯の祝福が、アブラハムによって生き返らされたのです。
私たちもまた、その働きはわずかなものであるかもしれない。 小さな存在であるかもしれない。 しかし、それでも神は用いてくださる。 アブラハムとサラが様々な出来事の中に、後悔しながらも、ためらいながらも、信じ切ることができないなかにも、神の祝福のもとに留まり続けることのできたその「証し」を立てるために、悲しみや嘆きの中から立ち上がった。 この世の人たちが見ている前で、その了解のもとで「証し」を立てることができた。 その祝福がイサクやその妻リベカ、そしてヤコブへと引き継がれていく。 その「祝福の源」となっていく。 生きるとは、神に用いられた「祝福の証し」をたてることではないでしょうか。