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「肯定される神を喜ぶ」 コリントの信徒への手紙二1章18~22節

2018-05-06

 創世記に記されている「バベルの塔」は、人間が思い上がった過ちのしるしでしょう。 神に取って替わろうとした、人間が造り出す拠り所の試みでしょう。 しかし、神は言葉の混乱によってそれを砕き、一致団結した人間を散らされました。 神が破壊した「バベルの塔」とは何であったのでしょうか。 建物のことを語っているのではないでしょう。 神が望んでおられたのは、いったいどういうことであったのでしょうか。 私たちの世界は本来、神がよいものとして造られたものであったはずです。 私たち人間もまた、神の創造の業を讃えるためにつくられたはずです。 神が「きわめて良かった」と肯定されたものを否定するこの世の力を、神は砕かれた。 神に取って替わるものを造り上げて神のもとから離れさせようとする力を、神はきっぱりと砕かれたのではないかと思わされます。 神が造られたこの世界を、神を否定する霊が、この世の力が覆ってしまっています。 
 パウロは、「然り」と「否」という表現でこのことを語っています。 「肯定」と「否定」と読み替えてもいいかもしれません。 パウロは、コリントの教会の人たちとの間に大きな問題を抱えています。 コリントの教会の創始者でもある自分自身が、使徒として認められていないという深刻な問題を包み隠さず語っています。 事態の収拾のためにコリントの教会を訪問するも思った通りに叶わず、パウロは失意のうちに戻って来ています。 しかし、パウロは確信をもって、「わたしたちは世の中で、とりわけあなたがたに対して、人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。 このことは、良心も証しするところで、わたしたちの誇りです。」とまで言うのです。 教会という群れは、「この世」の中にあると言います。 この世と離れて存在するものではない。 「この世」の中にありながら、それでもイエス・キリストの群れとして、神によって選び分かたれた存在である。 この神の選びと導きを忘れて、人の知恵や力に依りすがってはならない。 「神の純真と誠実」によって起こされたものである。 「神のご真実と恵み」によって支配されているものである。 「神は真実なお方です。 神の恵みの下にあります。 これがわたしたちの誇りです。」と確信してパウロは言うのです。 この「誇り」という言葉は、「喜び」と読み替えてもふさわしい言葉です。 神は真実なお方である。 私たちはその神の恵みの支配の中にある。 それが私たちの喜びであると、差し迫った深刻な問題の相手方であるコリントの教会の人たちに向けてパウロは確信をもって伝えているのです。 パウロはこの深刻な溝を「否」とは、受け取めていない。 パウロには、神のもとから離れさせようとする「否定する霊」がまったく働いていないのです。 むしろ、困惑するなかにこそ、神のご真実は変わらず貫かれる。 この神の変わらない恵みを再び分かち合うために、反目するコリントの教会の人たちに思いを書き送っているのです。 
 パウロの言う「然り」とは、この神の真実に対する応答、「アーメン」です。 この「然り」だけが実現されたお方、神の約束がことごとく「然り」となったお方が、神の子イエス・キリストです。 このお方に固く結び付け、油を注いでくださるのは神です。 証印を押して、保証として私たちの心に霊を与えてくださるのは神です。 ですから、私たちはこのお方を通して、神をたたえるためにアーメンと唱えるとパウロは語っているのです。 この神の「然り」にアーメンと唱える者を、受け入れる者を、神はご自分に属する者として証印を押してくださる。 その保証として、「霊」を与えてくださると言います。 神に対する「否定」を繰り返してきた、今もなお繰り返し過ちを犯しながら歩む私たち、それでも神は変わらず、「肯定」をもってそのような姿を受け入れてくださって、赦し続けてくださるのです。 私たちはこの神を喜ぶことができるのです。 「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」(ネヘミヤ8章10節)と言われています。



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