「主の十字架の前に立って」 マタイによる福音書27章45~56節
聖書は、「十字架に釘付けられた姿」こそ、主イエス・キリストの地上の生涯の最後の姿であると語っています。 「昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。」とあります。 旧約聖書の預言者たちが、神がこの世を裁かれる「終わりの日には、真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする。」と預言してある。 三時という時間は、神殿において小羊がささげられる時間と符合している。 イエスは神に裁かれるために小羊としてささげられ、十字架に架けられたのです。 その時、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」というイエスの大きな叫びが響いたというのです。 立派な殉教者としてイエスを描きたいのであれば、もっと気の利いたセリフがあったでしょう。 この叫びは、神を責める、神を怨む叫びでしょうか。 挫折や心の乱れが破れ出た叫びでしょうか。 そうではないでしょう。 神は、ご自身のもとから離れさせようとするこの世の力をないがしろにするお方ではありません。 曖昧に放置することもできません。 裁かれないではおれない真実なお方です。 主イエスが十字架のうえでご経験なさっておられる姿は、本来、内面にもっているものの故に私たちが味わうはずの姿です。 私たちの中にある傲慢、弱さ、身勝手などが噴き出して、この十字架刑を引き起こしているものです。 私たちは残念ながら、その本当の恐ろしさが分かっていないのです。 永遠の裁きの中に落ち込んでいることの自覚も、危機感もないのです。 主イエスがここで叫んでいる絶望は、私たちが抱くべき絶望であり、叫びであるはずなのです。 終わりの日に私たちが味わなければならない神に棄てられるという恐ろしさを、イエスご自身だけがご存じで、私たちに替わって味わってくださったのです。 イエスの十字架の姿は、私たちが何も分からないままであるなら、当然、受けるべき最後の悲劇の姿です。 神の厳しい裁きを受ける姿です。 同時に、その裁きをみ子イエスに負わせて、手を差し伸べている神のご愛を示す神の業でもあるのです。 弟子たちは、この十字架の意味が分かりませんでした。 哀れな姿、愚かな姿、敗北者の姿としか映りませんでした。 エルサレムに行けば、イエスのそばで栄光の座に着けるかもしれないと思った弟子たちは、すべて「十字架に釘づけされたイエス」を見捨てて逃げ去ったのです。 私たちもそうでした。 何も分かっていなかった。 自分の物差しでしか、神の業を測ることができなかった。 しかし、ある日突然、神の声を聞いた。 信仰が与えられた。 神の霊に導かれるまでになった。 神との交わりに生きていると確信するまでになったではありませんか。 弟子たちもまた、イエスの十字架の後、よみがえられたイエスに出会い、十字架の死の意味を知らされるようになった。 そのために、弟子たちに聖霊を降されたのです。 まさに十字架の出来事は、父なる神と子なるイエスと聖霊の為せる業であったのです。 父なる神は真実なお方であるがゆえに、わが子を遣わしてその「死」をもって棄てざるをえなかった。 裁かざるを得ない「痛み」をもって、わが子を棄てられた。 わが子の死をもって、私たちの中にあるものを十字架に架けて殺して、徹底的にもろともに裁かれたのです。 そこには、私たちと同じ弱さを担うからだをもって、たったひとりで立ち向って、黙って引き受けてくださったイエスの「痛み」もまたあるのです。 十字架こそ、神の義しさと神のご愛が交差する「痛み」です。 その凝縮した「痛み」がイエスの叫びです。 私たちの罪の赦しを、十字架のうえで執り成している叫びです。 十字架のもとに噴き出ている人間の様々な姿こそ、私たちの中にある罪の姿です。 私たちはこの神の裁きと赦しを、感謝して受け取ることです。 神と子と聖霊の、いつまでも絶えることのない交わりに加えていただくことです。 古い罪の世界から、新しい命の世界に生き抜くことです。