秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

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「手を伸ばしなさい」 マタイによる福音書12章9~21節

2018-02-18

 ユダヤ教のなかでは、「安息日を守る」ことは律法の中でももっとも大切な戒めのひとつであったようです。 創世記には、「天地万物は完成された。 第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」と記されています。 主がご自分の仕事を離れ、創造の業の手を休め安息され、取り分けられ、祝福された特別の日であるから、「安息日を心に留め、これを聖別せよ。 他の日と区別し、特別な日としなさい。 いかなる仕事もしてはならない。」と、人々は戒められていたのです。 ところが、イエスという名のナザレ人を先頭にして、律法に囚われないで「安息日」を過ごしている群れが突然現れ出てきたのです。 人々は、イエスを訴えようとします。 殺そうと相談します。 イエスが会堂に入られた時も、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか。」と、人々がイエスを訴える口実を得るために迫ってきたのです。 イエスは、細かい律法解釈の論争などをはるかに越えて大胆に行動します。 「安息日に穴に落ちた一匹の羊を手で引き上げて助けてやらない者がいるだろうか。 それが人間であるなら、なおさらであろう。」とイエスは語って、会堂で目に留まった「片手の萎えた人」に向けて言うのです。 「手を伸ばしなさい」 イエスは語るだけでなく、「安息日」に病気を癒すことは律法違反であると抗議する人の目の前で、敢えて癒されたのです。 人々にとっては、「片手の萎えた人」とは、「穴に落ちた羊」より、社会的に価値のない存在であったかもしれない。 しかし、イエスにとっては決してそうではない。 迷い出た一匹の羊のように、憐れみをもって捜し出し、救い出すべき存在です。 
 イエスの言う「安息日に穴に落ちた羊」とは、この会堂に足を運んでいる「片手の萎えた人」のことでしょう。 人々から疎まれ、排除されていた人であったに違いない。 マルコによる福音書ではもっと激しく、イエスは大胆に行動されたと書かれている。 手の萎えた人に「人々の真ん中に立ちなさい。」と言われて、「安息日に律法で許されているのは、命を救うことか。 殺すことか。」と、抗議している人々に迫ったと言います。 だれも答えず沈黙している人々を怒って見回して、人のかたくなな心を悲しんで、その「片手の萎えた人」に「手を伸ばしなさい」と言われたのです。 イエスは、神のみ心から引き離そうとするこの世の力に激しく怒り、それによって虐げられている人を憐れんで、悲しんで手を差し伸べられたのです。 公然と、神の罰を受けた者とみなされていた「片手の萎えた人」の手を治されたのです。 人々にとっては、してはならないことです。 イエスのとっては、正面切った挑戦です。 神から与えられる真の「平安、祝福」に、日の区別などはない、直ちに与えられるものです。 強力な抗議のある真っ只中であったとしても与えられると、「安息日は人のために定められた。 人が安息日のためにあるのではない。」とイエスは主張しておられるのです。 創造の業を為し遂げてくださった神を仰いで、そのみ言葉を聞いて、本当の「平安、祝福」を私たちが得るためです。 父なる神の真の「平安、祝福」を受け取りなさい。 「手を伸ばしなさい」と「安息日の主」としてイエスは言われたのです。 「萎えて衰えてしまっている手、諦めてしまっているその手」を差し出すのです。 「隠して引っ込めている手、何もしないで死んでしまっているその手」を、もう一方の手と同じように変えていただくために、憐れんで、悲しんで、怒って呼びかけてくださった主に差し出すのです。 「安息日」は、真の「平安、祝福」を取り戻す大事な時です。 今まで価値がないと思われていたその手が生き返って、「礼拝し、賛美し、祈る」手に変えられるのです。 私たちは「安息日」に何をしないで、何をすべきであるのかを祈って、神の「平安、祝福」を受け取り損ねてはならないように思います。 



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