秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「まことの闇の中で輝くまことの光」 ヨハネによる福音書1章1~13節

2017-12-17

 「初めに言があった。 言は神と共にあった。 言は神であった。 万物は言によって成った。 成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」とヨハネによる福音書は言います。 創られたこの世界より前に、言葉はあった。 それは神の言葉であった。 神が発する言葉は、神そのものであった。 その言葉が、この世界を創り出したと言います。 神は「語りかける言葉」をもつお方である。 この世界は偶然にでき上がったものではない。 神の意思によって、神の言葉によって成ったものである。 私たちはこの厳粛な事実を忘れてはならないし、この神の言葉に応えて生きるようにと私たちは創られたことを思い起こすべきです。 
 かつて神は、多くの預言者を通してみ言葉を語ってくださいました。 それでも神の言葉を聞こうとしないこの世に、神は神の子である「この言」によって忍耐強く語り続けておられるのです。 「この言」とは、イエス・キリストです。 この遣わされたイエス・キリストの言葉によって起こされる出来事こそ、この世にある私たちにとって「命である。 光である。」そうであるのに、この世は認めなかった。 受け入れなかった。 しかし、それでもなお、この「光は暗闇の中で輝いている。暗闇はその光を理解しなかった。」とヨハネによる福音書は語っているのです。 
 私たちはその「暗闇」を見ようとしません。 見続けることができません。 一時しのぎのかりそめの光を自ら造ろうと努力します。 おぼろげな光に目を奪われて、「まことの暗闇」であることに気づきません。 「まことの暗闇」とは、神のみ言葉が存在しないところです。 神のみ言葉を失ったところです。 神のみ言葉に聞こうとしない、神の言葉を必要としないところです。 私たちはそのようなところに生きていくことはできません。 しかし、そのようなところに、「まことの光となって輝いている。 今もなお、輝き続けている。」と言うのです。 この世の暗闇は、私たちの想像をはるかに越えて深いものです。 私たちの力では限界があります。 そのようなところに、私たちが見て、聴いて、触れて、出会うことができるお方として神が現れてくださっている。 条件付きの命に定められている私たちが、この神の言葉に耳を傾け、受け入れるなら、「まことの光」を見出す。 まったく「新しい命」を見出す。 この暗闇に包まれた世界に、イエス・キリストは「光」として、「命」として誕生されたとヨハネによる福音書は告げているのです。 12節に、「この言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」と証言しています。 イエスが与えた神の子となる資格とは、「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」(14:16)と言われた新しい命です。 まったく別次元の命です。 終わりの時に、神が創造される新しい命をもつ、神の子となる命です。 これは、神によって授けられる恵みの賜物です。 「血によってではなく、肉の欲によってでもなく、人の欲によってでもなく、神によって与えられる」と言います。 血筋でもなく、人間の計らいによるものでもなく、人間の営みによるものでもない。 神の子でない者が、神の子になる資格のない者が、神の子となる。 神から生まれ出た者になる。 このような出来事が、神によってなされると言っていることなのです。 私たちの住む世界は、神の言葉なき「まことの暗闇」です。 しかし、そこにこそ、「まことの光」が輝いている。 この誕生されたイエスこそ、「人間を生かす命の言葉」です。 「暗闇に住む人間を照らし出す光」です。 暗闇の中に死に定められている私たちを救わずにおれない神の愛が、言葉として鳴り響いています。 光として輝いています。 命として生きています。 その出来事について、私たちはクリスマスを喜び祝っているのです。 この出来事を起こしてくださったのは、変わらずに初めからあった「神の愛」です。



バナー
バナー

お知らせ

過去の記事



〒010-0917
秋田市泉中央3−2−1
TEL/FAX 018-862-5357(教会)
TEL 018-863-4228(幼稚園)
牧師 村上悦二
協力牧師 渡部元