「箱舟にみる教会の姿」 創世記8章15~22節
なぜノアの洪水が起こされたのかを、聖書は短く「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。」と言います。 この神の思いは、いったいどのようなものであったのでしょうか。 私たち人間が悔い改めて、神のもとに立ち帰るのを待ちわびている「神の忍耐」でしょう。 神を拒む私たちの自由意志に耐えて、委ねてくださっている「神の痛み」でしょう。 そのような嘆かわしい世界にあって、「この世代の中であなただけはわたしに従う人だ」と、神に認められた人物がノアであったのです。 神は決して滅び尽くすことはなさらないのです。 必ず、「残りの者」を立てます。 そのわずかな者たちから、新しい群れを起こしてくださるのです。
ノアの姿は、神など必要としないで、何の支障もなく生きている人々から嘲られ、馬鹿にされ、変人扱いされた。 大洪水など起こりようもないと一笑に付されてしまう状況のなかでは、人々には、ノアの姿は愚かな姿に見えたのです。 それでもノアは、神のみ言葉だけに従って巨大な箱舟を造り続けたのです。 信仰は、神の語りかけによって始まる「神の挑戦」です。 ノアは、煩わしい「神の挑戦」を避けて、何事もなかったかのようにふるまうこともできたでしょう。 ノアは、この「神の挑戦」を真正面から受け取っていきます。 生涯をかけます。 必ず助けてくださるという「神の希望」に生きていきます。 神のみ言葉通りに果たした者だけが神の栄光に与かる。 その喜びを体験することができると聖書は語っています。 ノアは最初、果たして洪水は起こるのだろうか。 洪水が起こりその波間に漂う間では、いつまで続くのだろうか。 洪水の果てには、何が待ち構えているのだろうか。 ノアは本当に孤独です。 不安です。 思い煩いも、寂しさも感じています。 そのような箱舟の中に閉じ込めたのは、「神の業」です。 箱舟の後方の扉が自由に開けることができたなら、もしかしたらノアは逃げ出していたかもしれない。 ノアが一年にもわたり、箱舟の中に留まることができたのも、また、ハトによって大地が現れ出たことを知らされても、じっと待つことができたのは、神がその扉を閉めていたからです。 このわずか8人のノアの家族の姿に、今日の教会の姿を見ます。 バプテスマの水によって弱さと罪深さを洗い流され、救いの箱舟に加えていただき、それぞれに与えられた人生の荒波にじっと耐えて、イエス・キリストに希望を一緒に抱き、父なる神に赦される時まで地上の世界をさまよっている姿ではないでしょうか。
箱舟の扉が開かれていた時こそ、「恵みの時、救いの日」です。 しかし、「扉が閉ざされる時が来た」のです。 私たちは、この「神の挑戦」を知る者です。 ですから、家族をともない、隣人をともない、すべての人々の救いのために、私たちは外に向けて呼びかけるのです。 そしてついに、「さあ、あなたもあなたの妻も、息子も嫁も、皆一緒に箱舟から出なさい」と、赦される時が来たのです。 再び、大地に足を踏み出したノアは、最初に、主のために祭壇を築いて礼拝をささげたと言うのです。 ノアの家族わずか8人だけの礼拝です。 しかし、家族を挙げての礼拝です。 目の前で繰り広げられた、裁きから救いに変えられた感謝の礼拝です。 これからの新しい歩みに対する献身を表明した礼拝です。 そのノアの礼拝に喜んで応えた神は、「大地を呪うことは二度とすまい。」と、ノアに約束されたのです。 神が人の罪を耐え忍び、受け入れてくださったのです。 憐れみのゆえに、慈しみのゆえに、裁きを赦しに替えて、私たちの罪を受け入れてくださったのです。 その結実が、主イエス・キリストによる十字架の救いです。 ノアの洪水は天罰でも、呪いでもありません。 神が苦悩と忍耐をもって、憐れみと慈しみをもって人々が悔い改めるのを待っておられたのです。 そのためにノアの家族を用いて新しい世界を再び創造されたのです。