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「地上を歩む教会の姿」 ヘブライ人への手紙 11章13~16節

2017-07-02

 ヘブライ人への手紙は、ノアについて、「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。」と言います。 また、アブラハムについても、「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」と記しています。 この「ヘブライ人」という言葉には、エジプトで奴隷であったイスラエルの民に向かって、エジプト人たちが付けたあだ名であると言われています。 定住の地を持たない、さまよい歩く人たちという蔑んだ思いがこの言葉には込められているのでしょう。 その当時のキリスト者の悲惨さは、「釈放を拒み、拷問にかけられました。 あざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。 彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。」と表現されています。 ヘブライの人々の信仰は揺らぎ、「本当に神はおられるのだろうか。 あの十字架につけられたイエス・キリストは救い主であったのだろうか。」という疑いの中にあったのでしょう。 ノアは、「あろうはずもない洪水が起こる。 あなたは木の箱舟を造りなさい。 あなたとあなたの家族はその箱舟の中に入りなさい。」と言われ、神自らによって箱舟の扉が閉められたのです。 人々からは愚かなことと馬鹿にされ、罵られ、本当にこの先どうなるのかという先の見えないノアの旅立ちでした。 アブラハムもまた、相当な財産を蓄えていてそのままその地で暮らしていれば、何の不自由もない暮らしを約束されていたのです。 しかし、神は、「あなたは生まれ故郷を離れ、わたしが示す地に生きなさい。 わたしはあなたを祝福する。」と約束されたのです。 二人ともこの地上においては寄留者であり、旅人でした。 神の言葉を聞くだけで、従うことから逃げることも、避けることもできたでしょう。 しかし、ノアもアブラハムも、この神の言葉を直接自分に語られた言葉として聴いた。 この神の約束に信頼を置いた。 信じて失敗を恐れず従ったのです。 常識ではありえないことを、神の約束の確かさだけに頼り、歩み出したのです。 
 主イエスは、私たちに「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。 休ませてあげよう。 わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽い。」(マタイ11:28)と言われました。 「軛(くびき)」とは、牛が田畑を耕すために首にはめられる道具です。 ふたつの穴が空いていて、二頭の牛の首にはめるのです。 イエスがその片方の軛(くびき)を担ってくださるので私の軛(くびき)は軽い。 ですから、私と共に重荷を背負いながら休みなさいと言われているのではないでしょうか。 この「重荷」とはいったい何でしょうか。 負わなくてもよい、逃げることができる、信仰のゆえに負う重荷や悲しみ。 ノアもアブラハムも、逃げて、諦めて、神の前から避けることもできた重荷や悲しみであったでしょう。 しかし、それが神の恵み、祝福の約束だと言っている。 この地上で、まだ目にしてはいないけれども、神は成し遂げてくださると信じることができるという信仰を語っているのではないでしょうか。 重荷や悲しみの状況が恐ろしいのではありません。 本当の恐ろしさは、この重荷や悲しみからくる思い煩い、不安、諦めが、神に対する期待や望みを失わせる。 神に頼らなくする。 希望を失わせることです。 私たちは勝手に諦め、変わることのない神の約束、希望を自ら失うのです。 絶望の死に至るところからよみがえられたイエスの歩んだ跡を、私たちは踏み従っているのです。 その先頭に立って歩いておられるのは十字架に架けられたイエス・キリストです。 教会は、天に国籍を置いて、この地上をこのお方の跡に従っている群れなのです。 



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