「イエス・キリストのため」 マルコによる福音書 10章17~31節
エルサレムの十字架に向けて、旅の先を急いでいるイエスの姿があります。 そのイエスの毅然とした、ただならない雰囲気を感じ取り、弟子たちは驚き、恐れたとあります。 そのイエスに「走り寄って、ひざまずいて、尋ねる人がいた」と言います。 「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」 これが、どうしてもイエスに尋ねて聞いて置かなければならない彼の質問でした。 イスラエルの人々は、自分たちこそ選ばれた神の民、戒めを堅く守る者、神の国を受け継ぐ者であると自負していたのです。 しかし、本当に律法を守っていれば神の国に入ることができるのであろうか。 そう確信をもつことができないでいたその人物を見つめて、イエスは慈しんで言われたのです。 「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」という掟を、あなたは知っているはずだ。 イエスが例示された戒めは、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」とする隣人に対する戒めばかりです。 イエスのこの答えを聞いたこの人は、「子どものころからそのような戒めを守ることは当たり前である」と言い、イエスに失望したのかもしれない。 そこで語られたイエスの言葉が、「あなたに欠けているものが一つある。 持っているものを捨てて、わたしに従いなさい。」と言われたのです。 すると、「その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。」とあります。 この人は、戒めを守ってきたことを誇りにしています。 その上になお、「何をすれば、神の国を受け継ぐ者となるのでしょうか。」と、自分のもっているもの、自分が果たしてきたことによって神の国に入ろうとします。 その姿にイエスは、「あなたに欠けているものが一つある。 持っているものを明け渡しなさい。」と言われたのです。 イエスは、持っている物を売り払い、貧しい人々に施したら、神の国を受け継ぐ者となると言われたのではありません。 また、すべてを捨てたら救われると言っているのでもありません。 自分を明け渡して自ら貧しくなるということ、これがあなたに欠けていると言われたのではないでしょうか。 イエスは、「なぜ、わたしを善いと言うのか。 神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」と言われました。 神以外の者は何ももっていない。 神の国を受け継ぐのも、また永遠の命を得ることもすべて神の恵みによる。 自分が何をしてきたのか、自分が苦難をいくつ乗り越えてきたかさえも、また自分が何をもっているのか、自分がどのようなものを身に着けているかさえも関係がない。 すべては神の恵みである。 私たちの真の充足は、神に自分を明け渡すことである。 持っているこの地上の富が、そして自らの誇りが砕け散った時に、この神の無条件の恵みが注がれる。 それが「天に富を積むことになる。 それから、わたしに従ってきなさい。」 イエスご自身に従うこと以外のところで、この神の恵みに与かることはできない。 イエスの通られた道以外のところを通っては到達することができないと言われたのです。 彼は、このイエスの宣言に気を落とし、悲しみながら絶望して立ち去って行きました。 同じように、自分をささげることのできない多くの弟子たちが、イエスのもとを離れて行ったと言われています。 イエスは、彼らの悲しみの姿を見つめながら、慈しんでこう言われたのです。 「人間にはできることではないが神にはできる。 神は何でもできるからだ。」 イエスは、この私たち人間ができないこと、絶望せざるをえないことを、ご自分の命を十字架の上でささげること、捨てることによって、私たちに代わって成し遂げてくださったのです。 「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。 種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌を歌いながら帰ってくる」と聖書に賛美されています。 この自分を捨てることのできなかった人にも、イエスのもとを離れていった多くの弟子たちにも、これから向かうエルサレムの十字架の上で帰ってくる道を備えてくださって、この世においても百倍の真の祝福を受ける、後の世においても永遠の命が与えられると言われました。 このイエスの慈しみのまなざしの中に私たちがいるという恵みが与えられていうのです。