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「耳が聞こえず舌の回らない人」  マルコによる福音書7章31~37節

2016-05-29

 弟子たちがどうしても忘れることができなかった、「エッファタ」というイエスが発した短い言葉の響き。 イエスが語られた、聖書の中に今もなおアラム語のままで記されている言葉、「エッファタ」、「開け」という意味の言葉に注目したい。 聖書によると、イエスと弟子たちはティルス、シドン、デカポリス、そしてガリラヤという地を辿って旅をしています。 地図で確認してみると、どう考えてもわざわざ大変な回り道をしているとしか思えません。 ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスは、イエスをユダヤの体制を壊す者とし捕らえようとしました。 ユダヤ教の指導者たちは、イエスを自分たちに逆らう者として憎みました。 イエスはそのような身に迫る危機を回避しながら、異邦の地においても、一人の人物のために、その人物を支える人々のために、そして、愛する弟子たちの養いのために働いておられたのです。
 ひとりの「耳が聞こえず舌の回らない人」に、イエスは出会われます。 「人々が、イエスのもとに連れてきた」人でした。 人と交わることのできない、そう諦めて心を閉ざした人であったのでしょう。 しかし、人々はイエスに何とかしてほしいと、「この人の上に手を置いてください」と願ったのでした。 耳が聞こえるようにしてください。 舌が回るようにしてくださいという祈りでした。 人々のそのような思いで連れて来られた人にイエスがなさったこと、それが弟子たちに大きな驚きと強烈な印象を刻んだのでしょう。 ここに詳しく述べられています。 「この人だけを群衆の中から連れ出した」 「指をその両耳に差し入れた」 「唾をつけてその舌に触れられた」 「天を仰いだ」 「深く息をついた」 そして、最後に、その人に向って「エッファタ」と言われたのです。 イエスは連れて来られただけの人を迎え入れ、受け入れました。 多くの群衆の中から連れ出して、二人きりで向き合われました。 その人はイエスの前に立ち、イエスはその人のからだに触れて、働きかけています。 イエスは、人と通じ合える言葉を持ち合わせないその痛みを、からだに触れてともに味わってくださっています。 ですから、イエスは「天を仰いだ」のです。 そして、「深く息をつかれた」のです。
 天を仰ぐとは、「イエスの祈りの姿」です。 「深く息をつかれた」とは、祈るすべすら知らないこの心閉ざした人に替わって、天からの力と憐れみを強く求めてくださったということです。 これが「深く息をつかれたイエスの呻きの祈り」です。 イエスは目を天に向けて、耳を聞えなくさせているもの、口を語らせなくしているもの、父なる神との交わりを一切途絶えさせているその苦しみを背負って、呻いて、天を仰いで祈られたのです。 人々はその人のからだが癒されることだけを願いました。 イエスは心を閉ざした人と神との交わりの回復のために、人々が望んだ以上のことを、全身全霊で天を仰いで、深く息をついて、呻いて、最後のひと言の祈りを「彼に替わって」、父なる神の力と憐れみを願い求め「エッファタ、開け」と叫ばれたのではないでしょうか。 イエスは神との交わりの回復のために、「聞くこと」を願われました。その耳を開かれたのも、その舌のもつれをほどいたのも、このイエスの「天を仰いだ祈り」です。 それを成し遂げてくださるのは、このイエスの「とりなしの呻きの祈り」が働くところに届けられる神の霊だけです。 ですから、私たちはイエス・キリストのみ名によって祈ります。 「耳が聞こえず舌の回らない人」の最大の恵みは体の癒しではなく、イエスそして父なる神との出会いでした。 その人を連れて来た人々の最大の恵みは、神との交わりが途絶えていた人の苦しみを共に担ったことによって、群衆の中からこの人と共に連れ出されたことでした。 ですから、私たちは共に苦しみ、悲しみを担い合うのです。



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