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「はっきり知ることになる神の愛」 コリントの信徒への手紙一13章1~13節

2026-03-01

 パウロはコリントの教会の人々に「愛」を語るにあたって、「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」と前置きします。 「そこで」とは、教会内に派閥争いがあったこと、「みだらな者、偶像を礼拝する者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者」などがいることをパウロが叫ばざるを得なかった事情がコリントの教会内部にあったのです。 「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。」と言い、「愛」について語り出すのです。 パウロは「愛」そのものを主語として語ります。 主イエスのお姿そのもの、主イエスの辿られた十字架への道、最後まで主なる神のみ心に貫いた救いの出来事そのものを、「愛」という言葉に託すのです。 4節から7節まで記されている「愛」の性質を主イエスに読み替えるなら、「主イエスは忍耐強い」から始まり「主イエスはすべてを望み、すべてに耐える」となります。 主イエスのお姿そのものをもって「愛」の性質と働きを語るのです。 「愛がなければ、騒がしいどら、やかましいシンバル」と言います。 異教の礼拝において、どらやシンバルは人を陶酔に導くための道具であったのでしょう。 盛んに賛美される歌もまた、自己陶酔に陥るような本末転倒にならないよう注意しなければならない。 様々な賜物も、あらゆる知識も、山を動かすほどの信仰も、熱心な証しも、燃えるような祈りや賛美や宣教も、父なる神に注がれる愛がなければその場限りの感動に終わり「無に等しい。」 頂いた賜物を十二分に用いて出来事を起こしたとしても、「愛」がなければ自己満足に終わり、「何の益にもならない」とパウロは言うのです。 「愛」の性質を7つの肯定の形と8つの否定の形で定義していますが、この否定の形には、コリントの教会の生々しい現実の姿が込められている。 ここに語られている「愛」は理想の愛を示しているのではなく、コリントの教会の現実が込められているのです。 鎖のようにつながれているこの「愛」の15の定義は、「忍耐強いから始まり、すべてを望み、すべてに耐える」で終わるのです。 パウロは最初期のキリスト教会に対する迫害者、キリスト者を牢獄に放り込んでいた張本人でした。 そのようなパウロを救いに至らせたのは、復活の主イエスご自身が忍耐してくださったから、パウロを見捨てることなく、裁くことなく、そのまま受け入れて立ち帰ってくることに希望をもち、待ち続けてくださり、救われるために忍耐してくださったからです。 パウロはこの実体験から「愛は忍耐強い」と語らざるを得なかった。 ここで語る「愛」とは感情ではなく「意思」です。 罪人の救いをどこまでも求め待ち続ける「神の強い意志」です。 パウロはこの主イエスが果たし終えた救いの業を通して「愛」を語り、コリントの教会の人々の救いを諦めることなく、追い求め、叫んでいるのです。 厳しく言えば、「愛のない信仰」、「愛のない希望」、「愛のない愛」が存在していると、自身の体験を通して神の前に晒し出して語っているのです。 地上のものにすぎないものは、いずれ神ご自身を直接見て、知るようになればいらなくなるものです。 「信仰」と「希望」と「愛」こそ、神との直接の関係にあるもので、いつまでも残ると言うのです。 「今は、鏡におぼろげに映ったものを見ている」だけかもしれない。 一瞬であったかもしれないが、涙とともに、喜びとともに、感謝とともに神のご愛の一端を垣間見ることができたではありませんか。 「そのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。 今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」と言うのです。 「預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう。」 しかし、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。」 主イエスの血によって贖われた者のつながりは、その働きは神のもとから注がれた「愛」によるものであるからいつまでも残るとパウロは語るのです。 



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