「イエスによって示された神の愛」 ローマの信徒への手紙8章31~39節
ローマの信徒への手紙は大変難しい書簡ですが、教会に大きな変革をもたらした書簡です。 その中でもこの第8章は書簡の最高峰に位置しているとまで言われています。 パウロは正直に、「これらのことについて何と言ったらよいだろうか。」と言いながら、そのパウロの口から出てきた言葉が「神がわたしたちの味方である。」、「わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」という表現でした。 この「味方である」という言葉は、「傍らに、側におられる」という意味合いの言葉です。 このパウロの信仰表現は、パウロの信仰体験からくるもので、「投獄されたこと、鞭打たれたこと、死ぬような目に遭ったことも度々あった。 石を投げつけられたこと、難船し昼夜海上を漂ったこと、・・・・様々な難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました」と告白しています。 これら人間がもたらす苦難があったとしても、「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。」 人間の能力をはるかに越える大きな力が働いたとしても、「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」と断言します。 パウロの信仰体験は、復活の主イエス・キリストとの劇的な出会いによる救いの喜びであり、ご愛に触れることのできた恵みです。 その主イエスのみ言葉とご愛に突き動かされて、それを伝える者とされた喜びです。 自分のためにも、すべての者のためにも十字架を背負い死んでくださった、そのお方が今も生きて脈々と働いておられるという驚きです。 この一連の働きこそ、神のもとから注がれるご愛であることをパウロは確信したのです。 パウロの言う「これらのことについて」というのは、前段落の「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということ」でしょう。 これはパウロ個人だけでなく、「すべてのために、すべてのものを、すべてのことにおいて」と三度にもわたって「すべて」という言葉を用いるのです。 これら「すべて」を貫いているのは、「神のご愛である。 一貫して変わらないみ心である。」と言う、「神の摂理」とでも言うべき告白です。 このパウロの確信は、今を生きる私たちの日々の足元にも届いているはずです。 御子イエスをさえ惜しまない、ゆるぎない神のご愛の輝きは、私たちキリスト者の日常にも輝いているはずです。 しっかりとその神のご愛の働きを見なさいと叫び、一貫して主イエスの十字架と復活の出来事のお姿に眼差しを注ぎ続けています。 自分自身の罪の赦しや救い、心の平安に留まらない。 「わたしたちすべては、すべてを賜っているので、すべてのことにおいて勝利を収める、この世のすべてを変える。」と言うのです。 「神がすべてにおいて、すべてとなられるためです。」(コリント一15:28)と断言し、現実の生活の中に究極の救いを求めているように聞こえます。 パウロはそのことを、「キリスト・イエスによって示された神の愛」と表現しているのです。 そこまでの神のご愛が、パウロを献身の働きへと駆り立てるのです。 「自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げなさい。 これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(12:1)と言うのです。 このパウロの「すべてを備えてくださっている」という神の摂理の眼差しは、私たちにも備えてくださっているはずです。 パウロはこのことを「輝かしい勝利」と表現するのです。 私たちは苦難や悲しみを克服した者としてではなく、そうした中においても神のご愛に引き離されることがないという約束に生かされているのです。 私たち人間の側の在り方に左右されるのではなく、神から遣わされたイエス・キリストのご真実によって、変わることのない神のご愛と御手の働きによるのです。


