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「神の愛をもってつながる友」  ヨハネによる福音書15章9~17節

2026-01-25

 第15章の冒頭に「わたしはまことのぶどうの木」というみ言葉が出てきます。 「わたしは~~である」という表現は、主イエスは至るところで「わたしは、命のパンである。 世の光である。 道であり、真理であり、命である。」と自己表現されています。 もともと「ぶどうの木」とは、イスラエルの民は自分たちのことと理解していました。 約束の地でぶどう栽培ができること自体が、神の民に注がれた神の祝福そのものであったのです。 しかし、イエスご自身は「わたしがまことのぶどうの木」であると言われるのです。 そして、「あなたがたはその枝である。 わたしの父は農夫である。」と言われる。 父なる神がぶどうの木を植え、その枝が豊かに実を結ぶように手入れをなさる。 ここに父なる神とイエスとの関係、イエスと弟子たちとの関係、父なる神と弟子たちとの関係を集約するのです。 「枝」はぶどうの実を豊かに実らせる務めを役割としてもっている。 「農夫」によって期待されている。 「ぶどうの木」は、「農夫」によって植えられ、育てられた。 そのイエスはご自身の「ぶどうの木」の幹に次々と「枝」を結びつけて、ご自身の務めをこの地上において引き継ぐように、「わたしにつながっていなさい。 わたしもあなたがたにつながっている。 わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。 人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」とそのつながりを示されたのです。 「つながる」の反対は「離れる」です。 イエスはご自身を見捨て、切り捨てていこうとする人に、「わたしから離れていこうとしている枝がある。 樹液の流れを失った枝は枯れるしかない。 取り除かれ、剪定されてしまう。」と訴えるのです。 それでは、イエスという「まことのぶどうの木」の幹に、何をもってつながるのでしょうか。 イエスは「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」 つながっているにふさわしい「枝」となっていると言うのです。 イエスのみ言葉をもって使命を帯びて、父なる神の手入れをもって整えられ、父なる神のみ心を果たしていくのです。 その結果、「わたしの父は栄光をお受けになる。」 大事なことは、私たちの実のなり方ではなく父なる神の輝きが現れ出ることであると言うのです。 そのために、ひとりひとりに神の期待にふさわしい賜物が与えられているはずなのです。 そして、この「ぶどうの木」のたとえに、9節で突然、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。 わたしの愛にとどまりなさい。」と言われる。 父なる神のイエスへの愛、イエスにつながれた人々へのイエスの愛が語られているのです。 イエスにつながるということは、父なる神によって注がれる愛を受け、その愛にとどまるということ、そこから神の愛を伝え、その愛を与えるという「愛する」ということに動かされていく。 イエスは、「あなたがたに新しい掟を与える。 互いに愛し合いなさい。 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(13:34)と言われるのです。 父なる神の愛、イエスの愛のほかに、イエスにつながれた者どうしの愛が語られているのです。 み言葉が、「愛する、つながる」という一連の動きを「ぶどうの木」の樹液のように起こしていると言うのです。 イエスを通して注がれた「み言葉、ご愛」によって、神さまとイエスとの交わりに、イエスと私たちとの交わりに、イエスに結ばれることによって「わたしの友」と呼ばれる交わりに加えられる。 その父なる神の恵みを私たちは受けているだけ、与るだけなのです。 神以外のものに寄り縋ろうとする人々のために、父なる神はイエスという「まことのぶどうの木」をこの世に植えられたのです。 それに結ばれた枝が新しい神の民になると宣言されたのです。 「わたしの喜びがあなたがたの喜びを満たす。 わたしがあなたがたを選び、任命したと言うのです。 



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