「イエスが起こされる出来事」 マルコによる福音書6章30~44節
マルコによる福音書の第6章には、主イエスが弟子たち12人を呼び寄せ、二人ずつ組みにして事細かに指示し村々に遣わしたと言います。 「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。 多くの悪霊を追い出し、多くの病人をいやした。」と言いますから、弟子たちの働きは顕著なものであったのでしょう。 その弟子たちがイエスのところに戻ってきて、「自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。」と言います。 村々では弟子たちの周りに大勢の人々が集まり、「食事をする暇もなかった。」と言います。 弟子たちにとっては初めての経験であり、主イエスに喜びの報告をしたのです。 しかし、そうしたイエスと弟子たちの働きの最中にも、バプテスマのヨハネが「犬死に」のように処刑されたこと、大勢の群衆は途方に暮れて、病気の癒しのみならず心の癒しを求めて集まってきたことをマルコは伝え、「闇」の世界に一筋の「光」が差し込み始めたと伝えるのです。 この状況下、喜び勇んで戻ってきた弟子たちに、「あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい。」とイエスは言われた。 弟子たちには、体を休めるようにという語りかけに聞こえたのでしょう。 しかし、多くの人々が弟子たちの動きを察知して先回りをして追いかけて来たと言う。 その直後に、この「五千人にパンと魚を配る」という働きを命じられたのです。 群衆に取り囲まれ夢中で奔走していた弟子たちを取り戻すかのように、「しばらく休むがよい」と、むしろ主イエスのもとに抱きしめられているように映るのです。 遣わされたところですり減ってしまった弟子たちの霊的な回復のために、イエスの心の鼓動に触れそのみ心を取り戻すようにと言われたのではないかと思わされるのです。 このイエスの呼びかけを聞いた弟子たちは、もうひとつのイエスの姿を見たのです。 弟子たちの後を追いかけてくる「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」と言います。 この「深く憐れむ」とは、内臓(はらわた)が揺り動かされるほどの痛みを伴う言葉です。 「同情」を越えて共に苦しむという「共苦」に至る激しい憐れみです。 イエスご自身にのみ用いられている言葉です。 このイエスの姿を目の当たりにした弟子たちは、神の激しい真実なるご愛が自分たちにも注がれていると気づかされたのではないでしょうか。 自分たちがやってきたことを喜び勇んでイエスに報告していた弟子たちに、しばしの間忘れかけていたことを思い出させるために、この驚くべき出来事を起こすのです。 「時もだいぶ経っていた」、「人里離れたところであった」、「男だけで五千人がいた」その現実の只中で、弟子たちはイエスに進言するのです。 「人々を解散させてください」 これにイエスは「あなたがたが群衆に食べ物を与えなさい。」と応じます。 「200デナリオンもののパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか。 そのようなお金もパンもここにはない。 自分たちにはできない。」と弟子たちは破れるのです。 はらわたに痛みを覚えたイエスが、目の前の「羊飼いのいない羊」のような大勢の群衆、「そんなことはできない」としゃがみこんでいる弟子たちを前にしてこの出来事を起こされたのです。 弟子たちを遣わして出来事を起こしたのはイエスです。 まるで詩編23編の歌のように、まるで「主の晩餐式」のように、祝福された「パンと魚を弟子たちに渡して配らせた」、イエスの眼差しが愛する弟子たちを通してこの大群衆を包み込んだ出来事です。 もとから弟子たちができないことを百も承知で神の業を起こしておられるのです。 ご自身のみ心を果たすために、私たちがその働きを担うために整えられるのを待っておられるのです。 新しい神の民となった私たちは、この主イエスの痛みを伴う憐れみに気づき、補い合い、支え合い、主イエスの真実なるご愛を私たちの内にも宿して参りたいと願うのです。


