「荒れ野と神の国」 マルコによる福音書1章16~20節
マルコはガリラヤのナザレ人イエスこそ私たちの救い主であると語り、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と福音書を書き出します。 その冒頭にイザヤ書(40:3)を引用し、「荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」と預言していたとおりに、「バプテスマのヨハネが荒れ野に現われた。」 ユダヤ各地から人々を呼び集め、新しい神の業が始まったと語るのでした。 そこに、ガリラヤのナザレから来たイエスが現れ、バプテスマのヨハネからヨルダン川で水によるバプテスマを受けられた。 すると、「天が裂けて霊が鳩のように御自分に降って来るのを、イエスはご覧になった。」 同時に、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者という声が天から聞こえた。」 その霊がイエスを「荒れ野」に送り出した。 イエスは40日間その「荒れ野」に留まり、誘惑を受けられた。 バプテスマのヨハネがユダヤ領主ヘロデに捕えられた後は、イエスがガリラヤへ退き「イエスの宣教活動」が始まった。 そのイエスの宣教を「時は満ち、神の国は近づいた。 悔い改めて福音を信じなさい。」と集約し、これが「神の子イエス・キリストの福音の初め」であると端的に一気に記すのです。 ガリラヤは様々な民族の支配が重ねられたところで、生粋のユダヤ人からは「ナザレから良いものが出るだろうか」と言われるほど、辺境の地、屈辱にまみれた地として蔑まれていたのでした。 イエスはそのような地を、ご自身の福音宣教の出発地点とされたのです。 ガリラヤ湖のほとりで、「シモン・ペトロとアンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。」とあります。 漁師たちにとってはイエスとの突然の出会いですが、人生が決定的に変えられる神の時です。 イエスは新たな関係を造り出そうと、「わたしについて来なさい。」と彼らを招いています。 イエスの後からついて来なさいということです。 彼らは「網を捨てて、従った」と言います。 「網」とは、生活のすべてという意味でしょう。 イエスは彼らの今の生活を捨てて、「人間をとる」漁師にしようと招くのです。 魚に対する鋭敏な感覚を、同じように人間の魂に目を向けるようにということでしょう。 ゼベダイの子ヤコブとヨセフの場合も同様でした。 「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。」と言います。 イエスのガリラヤでの宣教の最初の準備が、弟子たちを招き入れることから始められたとマルコは語るのです。 「荒れ野」とは私たちの現実の世界でしょう。 様々な呻きと、欲望や権力がうごめく闇のようなところでしょう。 そこに「福音の初め」という叫び声が起こされた。 暗闇にまみれたそのところに、切り刻むかのように「天が裂けて」聖霊が注がれた。 「わたしの心に適う者」という神のみ声が響いた。 これが旧約聖書に約束されていた新しい時代の夜明けであるとマルコは語るのです。 何も見えていない、何も聞こえていない私たちと共に、この「荒れ野」のようなところを神のもとから遣わされたイエスが共に生きてくださった。 神のご真実とご愛によって新しい道が備えられた。 私たちだけではどうすることもできない「荒れ野」に、「神の国」の恵みが映し出されるまでになった。 本来結びつくはずの無かった「荒れ野」と「神の国」が一本の道によって結び付けられ、重なり合うことが「今、ここに」明らかにされたとマルコは宣言しているのです。 神の民の群れが、「人間をとる漁師になるため、呼ばれて集められた存在」であるとするなら、呼ばれた時、今の自分を打ち砕く自己吟味の機会として、「網」を捨てることに迫られるかもしれません。 マルコはこのイエスとの出会いの感動を、自分一人のものとしないで分かち合う力が与えられると言います。 自分が理想とする自分を捨てて、神が御子を遣わしてまで愛してくださったありのままの自分を大切に、主イエスの後について参りたい。


