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「将来の救いの輪郭」 イザヤ書51章1~11節

2025-11-30

 三度「わたしに聞け」と主なる神は呼びかけています。 呼びかけられているのは、「正しさを求める人、主を尋ね求める人」です。 当時としては、ほんのわずかな人ということでしょう。 イスラエルのルーツであるアブラハムを思い起こし、目を注げと言います。 たったひとりであったアブラハムを選び、祝福して子孫を増やし、神の民が造り上げられてきたではないか。 アブラハムが特別な人であったからでもなく失敗も繰り返したが、注がれた信仰に支えられて辛うじて主なる神のもとへ戻っていった。 それと同じように、神の裁きによって打ちのめされたすべての廃墟はこれから慰められる。 破壊された荒れ野はエデンの園のようになり、「喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」場へと再創造されていく。 「教えはわたしのもとから出る。 わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。 わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ わたしの腕は諸国の民を裁く。」と預言されるのです。 ここで主なる神が言われる「裁き」、「正義」とは「救い」とまったく同じ意味合いで語られています。 父なる神のみ子がこの世に遣わされるとは、神の裁きのためです。 ご自身のもとに間違いだらけの私たちを引き戻すためです。 新しい神の国の民を起こすためです。 主イエスの肉体の死を、「みずからを償いの献げ物とした」(53:10)と表現するのです。 主イエスの償いの死を通してしか、神のもとに立ち帰るという新たな神の約束に与ることができないと、「彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛み、彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのため、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。 彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼が受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(54:4-5)、そのための主イエスの誕生であったと言うのです。 私たちは喜びにあふれたクリスマスの背後にある、壮絶な旧約聖書時代の歴史的な戦いを決して忘れてはならないのです。 「わたしの救いはとこしえに続き わたしの恵みの業は絶えることはない。」と預言しています。 イザヤは「草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(40:8)と言い、主イエスご自身も「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マタイ24:34)と語るのです。 従って、今の世に生きていったい何を恐れる必要があるのかとみ言葉が響いてきます。 この神の約束に対する信仰者の群れの祈りが9節から11節に歌われています。 「奮い立て、力をまとえ、主の御腕よ。」と、強く救いを求める歌です。 この世にはびこる「滅びの力」と主ご自身が戦われることを求める祈りです。 天地創造の際にはエデンの園が設けられこと、アブラハムからイスラエルの12部族が築き上げられたこと、出エジプトの際には不思議にも助けられたことなどの古の出来事を思い起こさせ、今真っ只中にあるバビロンからの脱出についても、この救いが成し遂げられるまで、祈り続けなければならないと叫ぶのです。 ついに、救われる言われのない私たちひとりひとりが、ひとりのみどりごの命という「大きな贖いの献げ物」によって再び買い戻され、神のもとへ立ち戻ることが赦されるという「救いの約束の原型」がここに示されているのです。 この「救いの約束」はどこまで行っても私たちにとって未知なるものです。 主なる神の前に、この世の「滅びの力」を浴びながら忍耐をもって立ち続け、その約束である将来の「救い」を待ち望んで、「贖われた人々を、深い海の底に道を開いて通らせたのは あなたではなかったか」とまで確信をもって祈り求めるなら、イエス・キリストによる人間の誕生を通して始められた壮大な神の救いの偉大さを豊かに味わい知ることができるようになるのです。 主イエスの誕生が示してくださった父なる神のご愛、救いの恵みは絶えることはないと、このアドベントの時期に思わされるのです。 



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