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「安心して行きなさい」 マルコによる福音書5章25~34節

2025-10-26

「会堂長ヤイロの娘」と「イエスの服に触れる女」という小見出しがついています。 「会堂長」とは、イエスに対して批判的なユダヤ教指導者層の象徴的な存在です。 そうした会堂長ヤイロが、「イエスの足もとにひれ伏して、わたしの幼い娘が死にそうです。 どうか、おいでになって娘に手を置いてやってください。 そうすれば娘は助かり、生きるでしょう。」とイエスに懇願するのです。 その事情を知ったイエスは、ヤイロと一緒に出かけて行ったと言います。 そのような切迫した状況の中で起こされた「イエスの服に触れる女性」との出会いであったのです。 彼女は、「12年間も病いに悩まされ続けてきた女性」でした。 当時の社会では、「出血」は汚れとみなされ、そのような人に触れた人も、この人が触れたものもすべて汚れたものと見做されていたので、人々はこのような人に近づくことも、本人もまた他の人に近づくこともなかったのです。 「人との交わり」が断たれていた存在でした。 多くの医者にかかっても治らなかった、財産を使い果たしても何の役にも立たなかったと言います。 12年間の病いの苦しみ以上の痛みを伴ったものであったでしょう。 そうした彼女が、様々なところで病いを癒し続けていたイエスに一縷の望みを持ちながら、こっそりとしか人前に出ることができない自分を見つめながら、「何とかこのわたしを癒してほしい」とイエスの服に必死に触れようとしたのです。 すると、彼女は「出血が全く止まって病気が癒されたことを体に感じた」と言うのです。 一方、イエスはご自分の服に触られただけなのに、「自分の内から力が出て行ったことに気づいた」と言います。 それに止まらず、「わたしの服に触れたのはだれか」と群衆の中で見回しておられたのです。 触れた本人を責めるためではなく、神の働きが「今、ここに」起こされたことにイエスが気づいたからです。 彼女は「病いの回復」を願っただけなのに、イエスは彼女の望みを越えた神の恵みの働きを果たそうとされるのです。 弟子たちは、だれが触ったのか見つかるはずがないと言うが、彼女はそうではなかった。 自分の身に起こった大きな変化を感じ取って、「恐ろしくなった。 震えた。」と言います。 その場を逃げることなく、震えながらイエスのもとに進み出て、ひれ伏してすべてをありのままに話したのです。 会堂長のヤイロも、藁をもすがる思いで恥を顧みず、イエスの前にひれ伏して「わたしの幼い娘が死にそうです」と訴えたのです。 イエスは病気の治療を越えて、人格的な癒しの業、父なる神の救いの業を果たそうとされるのです。 大群衆に囲まれた中で、一対一で、彼女の小さな願いをそのままにされないのです。 「だれか」というイエスの問いに、自らの言葉をもって応えさせる。 心の中にあるものをすべて吐き出させ、ありのままを語らせ、神の力を働かせ大きな変化をもたらすのです。 彼女の小さな生まれたての信仰が、イエスのみ前に面と向かって立つまでの信仰に引き上げられていくのです。 イエスは、その信仰を「あなたの信仰」と呼んで、「あなたの信仰があなたを救った。」と言ってくださるのです。 「信仰」は、私たちの持ちものではありません。 恵みにより注がれてくるものです。 そのために備えられる「賜物」も、神より託されるものです。 私たちが鍛え上げたり、増し加えたりできるものではありません。 神のみ前に恐る恐る立つことです。 ありのままをさらけ出して、神の見ておられることを知ることです。 呼びかけられたみ言葉に聴いて理解することではなく、それに応えて従ってみて味わうことです。 神さまは、吹けば飛ぶような私たちの「願いや祈り」を探し出し、見つけ出し、取り出して大きく変えてくださるのです。 そして、「もう病気にかからず、元気に暮らしなさい。 安心して行きなさい。」と言われ、父なる神と御子なるイエスとの交わりに留まり生かされるようにと送り出してくださるのです。



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