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「主の家に帰る生涯」 詩篇23編1~6節

2025-10-05

 詩編150編の中でも、最も愛唱されてきた「賛歌、ダビデの詩」です。 幸いにも主なる神に出会うことのできた実体験を味わった人間の驚きと喜びの告白です。 人間として大きな失敗もし、悩みもがき波乱万丈のダビデの生涯の集約とも言える詩編23編です。 「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」と言います。 羊飼い無くして生きていけない羊と同じように、一人では生きていくことのできない迷いやすい存在であることを歌います。 この詩を、牧歌的な穏やかさをもって、表面的に受け取ってはならないように思います。 ダビデの激しい格闘と葛藤のゆえに、心の叫びとして導き出された歌であるように感じるのです。 羊飼いとしての主なる神は、「青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。」と歌います。 神のもとから発せられる一つ一つのみ言葉によって、自ら得ることのできない「糧」を与えられる。 涸れた谷に鹿が水を求めるように渇いているわたしの魂の渇きを癒してくださる。 もはや飢えることも渇くこともなく、彼らの目から涙をことごとくぬぐわれる。 み名のために正しい道に導き、魂を生き返らせてくださる。 羊飼いが失われた羊を連れ戻し、傷ついた羊を癒し、病める羊を力づけるように、主なる神が私たちを養い、憩わせる「恵みと慈しみの世界」がこの世に開かれていると言うのです。 主なる神を羊飼いとして、ご自身を一人では生きていくことのできない「一匹の羊」として、私たちと同じ人間の生涯を歩んでくださった主イエス。 父なる神のみ心を果たす私たち人間の「羊飼い」として、悪しき者、病める者、希望を失っている者たちを救うためにこの世に遣わされてきた主イエスのお姿を憶えます。 それは順風万端の時だけではない。 「死の陰の谷」、神のみ業が到底及ばないと思われるところにおいても、主なる神のもとから最も離れていると思わされるところにおいてでも、ダビデは「恐れない。 なぜなら、主なる神が共にいてくださるからだ」と言うのです。 養い、魂を生き返らせてくださると同時に、「わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。」と言います。 人となられたみ子イエスは、究極の敵である「死」を前にして、弟子たちを愛し抜かれて、最後の晩餐の「命のパンと新しい契約の杯」の食卓を整えられたのです。 ダビデはそれを、「わたしの頭に注がれる香油」、あなたが「溢れさせてくださるわたしの杯」と表現します。 新約聖書の時代を歩む私たちは、主イエスの十字架の贖いを通して、「あなたとわたし」というこの一対一の交わりの実体験、「かえがえのない交わり」が、全く無条件の恵みの世界があることを、私たちに告げ知らせるのです。 過去の私も、現在の私も、将来の私も、無条件にそのままの姿をもって赦され、招かれているのです。 それは、「わたし」そのものが無条件で根底から贖い取られているからです。 人間として歩んでくださって、父なる神によってよみがえらされた復活の主によって、父なる神の賜物である聖霊が注がれて、私たちのうちに宿るようになる。 私たち自身が「神の神殿」とならせていただくようになる。 この一対一の交わりが与える「聖霊」が繋ぎ合わされて、神の民が築き上げられる。 そこに神の業が起こされ、それぞれの違いを越えて、聖霊という一つのものに突き動かされて、それぞれにダビデのごとく「わたしの賛美」が起こされるのです。 私たちは整えられた食卓に招かれ、豊かな恵みと慈しみが与えられているのです。 「命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。」と言います。 私たちはこの恵みと慈しみに突き動かされていくのです。 私たちの生涯は、「主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまる。」までの途上の歩みを、恵みと慈しみに支えられて生かされているのです。 この「神の恵みと慈しみ」をしっかりと受け止めて参りたいものです。



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