「分からせてくださる主」 マルコによる福音書7章14~23節
「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たち」と主イエスの間に、「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」と論争が起こっています。 手を洗わないで食事をする人たちこそ、律法によって「汚れた人」と彼らは決めつけるのです。 そこで主イエスはイザヤの預言を引用して、「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」 人間の戒めを教えとして教え、むなしく神を崇めている。 「人々の前で天の国を閉ざしている。 自分がそこに入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。」(マタイ23:13)とまでイエスは言います。 神の掟を守ることに込められた神のみ心を知り、そのみ心に従うことが大切である。 「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。 受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。」と言われたのです。 この主イエスの言葉は当時としては、大胆な律法の言い伝えに対する全面否定であったのです。 それから、主イエスは再び群衆を呼び寄せて、「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。」と言われ、イエスご自身を通して語られたみ言葉に聞きなさい。 神のみ心を霊なる力によって分からせていただき、「悟りなさい」と言われたのです。 主イエスご自身に従うとは、その口から語られるみ言葉に聴いて、父なる神のみ心を悟り従ってみることです。 その時初めて、主イエスの恵みにより自分が変えられていくことになる。 そのことを感謝して、喜んで受け入れることになると主イエスは語られたのです。 その際、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」と、謎めいた言葉を発しておられます。 今、ここで論争となっている「食べ物」のことです。 「食べ物」は人の心の中に入っていくのではなく、腹の中に入り、やがて消化されて外に出されていき、すべての食べ物は清められると言います。 「清い食べ物」と「汚れた食べ物」を区別することは無意味であるし、手を洗うかどうかでその区別の決定的な要因とはならない。 「食べ物」が人を汚すのではなく、「人の心の中から出てくるものこそ、人を汚す。 人間の心の中から、人間の悪い思いから出てくるものが人を汚す。」と、12の「悪い思い」の例が列挙されています。 「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。」(ルカ6:45)と言われているのです。 主イエスは愛する弟子たちはそうであってはならない。 人間の言い伝えに従うことが、必ずしも神の掟、神のみ心を果たすことにはならない。 言い伝え通りに形だけ整えていても、神のみ心を果たしていることにはならない。 そう言われて、「清くされた者」と「汚れた者」を区別し、一つのものさしに当てはめ、それにそぐわないものを排除しようとする姿であることを主イエスは示し、そうであってはならないと愛する弟子たちに語りかけておられるのです。 イエスの言われる「心の中」とは、人を人たらしめる、様々な思いを生み出す源泉のことです。 その「心」は、主イエスご自身から離れていてはならない。 そこは、神との交わりの場、出会いの場、復活の主が宿られる場です。 神によって備えられた「人の心」をもって、神ご自身を愛するように互いに愛し合いなさいと言われているのです。 神がその独り子をもって贖ってくださったほどに、この私を愛してくださっていることを示されたのなら、この神の恵みの中で自分自身と他の人々を見つめる目が変えられていく。 心の中から出てくる賜物を、誤った向きに用いてはならない。 神との出会い、交わりの場をしっかり保っているなら、授けられている賜物が用いられて、その人を立ち上がらせることができることを、愛する弟子たち、私たちに主イエスは語っておられるのでしょう。